1996/1
No.51
1. 謹賀新年 2. 音と振動を科学する−研究活動のあり方と課題 3. 公害振動の評価と研究の動向 4. 環境にやさしい鉄道であり続けるために

5. 道路交通騒音の予測と対策に関する研究の課題と方向

6. 音響材料試験に関わる測定精度の追求
7. ダンピング試験と制振材料 8. 航空機騒音問題の歴史(1)
       −特集:21世紀に向けた研究の展望−
 ダンピング試験と制振材料

物理研究室 室長 金 沢 純 一

 現在の図書室は本館を建て替えたときにその2階に設置され、その後27年余り、ほぼ同じ書架の配置のまま現在に至っている。数年前に書籍の整理が行われて、以前とは大分異なった配置になってしまったが、それまでは一部の書籍の整理が行われた外は、長年にわたってほぼ同じ配置のままであった。上段の方には、古い単行本などが収められていたが、これらの多くは挨がのったままであり、長期間誰も手を触れていなかったことを物語っていた。この書架には幅約30cmの小さな梯子が備えられており、上段の本の出し入れはこれを使って行うようになっている。最近はあまり時間がとれないためこれらの本を手にする機会は少ないが、以前はよくこの梯子に腰掛けて、夜中まで図書室の上段にある古い本を読んだりした。

 ある時、これらの本の間にかなり痛みかけてはいたが、本研究所の創設者の一人である坂井卓三先生の「量子力学序論」が納められているのが目に入った。この本は、坂井先生が昭和8年から9年にかけて中央気象台からの依頼で、気象台職員の修養のために行った講義を元に加筆修正して、昭和19年9月に改訂本として出版されたもので、時節柄2000部のみの限定出版となっている。坂井先生の大学における迫力ある講義については伝説的にもなっていると聞くが、坂井先生の弟子の一人で、ガモフ全集の翻訳者としても知られる鎮目恭夫氏は、当研究所にも在籍されたことがあるが、ある物理学関係の雑誌の対談で、関西の大学に移った際にそのユニークな講義の方法を踏襲して必ずしも受け入れられずに苦労をされたことを語っておられる。ともあれ、理論物理学も量子力学も専門としない筆者にとっては、この本の抑揚ある記述は今読んでも面白く、その迫力ある講義の一端を垣間みることができるような気がする。

 この本のすぐ近くに、当研究所が1951年から1966年までの間、定期的に発行を続けた「小林理学研究所報告」が並べられていた。第1巻の発刊の言葉として、研究所創設者の佐藤孝二先生は、当時は専門雑誌に寄稿する場合、相当厳しい頁数の制限があることから研究業績を十分発表する場を持ちたいこと、少しでも研究所の業績を広く一般の批判にゆだねることを目的に独自の研究報告 を年に数回出版することにしたと述べておられる。第1巻第1号には、最初に岡小天先生の極性鎖状高重合体の誘電損失を扱った論文、次いで河合平司先生のポリビニルアルコールのヤング率と内部損失を扱った論文が載せられ、この後、溶液中の非球形粒子の光散乱、高分子溶液の固有粘度、木材のヤング率及び振動損失、相同染色体の間に働く引力、サウンドボックスの振動板の振動に関する論文と続き、最後に能本乙彦先生の超音波による光散乱に関する長大な論文が載せられている。第1号は、研究所発足後約10年の間に蓄積された成果の中の最も主要なテーマを反映していると考えることができるが、既にこの当時から、高分子材料の弾性率や内部損失が一つの主要なテーマとして取り上げられていることがわかる。

 次いで第2号から第4号にかけては、高分子、生体、結晶などの物性や超音波の研究テーマに加えて、梵鐘やバイオリンの音響学的及び振動学的研究ならびに中性子のベータ崩壊に関する研究報告が取り上げられている。また、楽器に用いられる木材の曲げ振動特性からヤング率と内部損失を測定した結果が報告されている。素粒子理論が研究テーマの朝永研究室は、一見他の研究室の成果とは関係がないように見受けられるが、他の研究室の陰極線回折の研究でべ一テ理論が取り上げられていたり、分子論の記述の多くの部分で波動関数が用いられていることなどから考えると、実際には互いにかなりの交流があったことが推察される。

 1954年12月には、第4巻2号として創立15周年記念の特集号を発行している。この頃の研究室は、音響学の佐藤・小橋研究室、圧電材料の河合研究室、超音波研究の能本研究室、X線及び陰極線を使った物質研究の萩原研究室、高分子・生体物理学の岡研究室、分子構造論研究の押田研究室、そして朝永研究室の7つで、はじめの4研究室が主として実験物理学を中心としたもの、残りが理論物理学を中心としたものとなっている。この時期の研究室・事務室の専任職員は、この号に載っている職員名簿によると現在と同程度の30名程度で、このほかに職員12名ほどの工作室があったが、研究室の顔触れは当初とはかなり変わってきている。各研究室の専任研究職員は2から6名程度で、これも現在とほぼ同様である。研究テーマについては、相変わらず高分子に関する物性研究が中心になっているものの、小林理研製作所すなわち現在のリオン株式会社における、イヤホーン、レコードピックアップなどの音響機器の生産ののびに応じた研究テーマが重要になってきている。河合先生の記述によると、これらの音響機器の特性の研究が進むにつれて、その諸性質を支配する制振材料の知識の必要が痛感されてきたが、制振材科は大部分高分子物質の粘弾性を利用するものであり、これまでの岡研究室の粘弾性に関する研究や、河合研究室で以前行った木材や繊維の固体物質の粘弾性の研究が大いに役立ったと述べておられる。

 ここに至るまでの研究所の運営については、佐藤先生によると、設立以来財政危機の連続で最低限の給与の支払いも滞ることも少なくなく、何度か私財を処分して急場を凌いだこともあるとのことで、この号を読むとようやく15年存続できたとの実感が伝わってくる。長年我が国の物理学の発展に貢献されてきたある人が、数年前にやはり物理学関係の雑誌に、昭和15年前後の回想として、周りの人たちの反対にもかかわらずこの研究所が設立され、案の定その数年後には経済的に立ちゆかなくなったために、仕事を回したことがあるとのことを書いておられた。そして、この研究所が現在でも続いていることに驚きを持っておられることを記しておられた。現在の研究所の規模は、人数の面では昭和30年代とそれほど変わっておらず、また経済的にはその頃より遥かに安定しているにもかかわらず、その人の目には細々と続いているように見えたのは、やはりこのころは大変な活気があったということだろうか。小林理学研究所報告も、その後しばらくは物性研究を中心とした傾向が続き、粘弾性に関する研究報告もかなりの数になっている。

 1956年頃までは、年間の報告数20数件のうち、物性や超音波に関するものを除いた音響関連の報告は、2、3件程度にすぎなかったが、1957年の第7巻第1号に、子安勝先生の残響室の設計過程とそれを使って測定した吸音率の特性に関する論文が載せられたのを境に、建築音響材料のデータや騒音・振動関係の報告が急増し、1966年には内容のほとんどがその方面の報告になっている。この間の推移は、物性関係の研究成果が上がるほど多くの研究費を必要とするジレンマが発生し、当時の社会情勢から音響関連に重点を移さざるを得なかったことを物語っている。これよりだいぶん後のことになるが、筆者が入所してまだ数年の後、横浜市立大学に転出されていた河合平司先生が、騒音の研究よりも、岩石が破壊する直前に生じる電流によって発生する電磁波の研究を行っ てみてはどうかとすすめて下さったが、当時の事情はそのようなありがたいお言葉を受け入れることは望むべくもなく、失礼をしてしまったことがある。この後、暫くは河合先生も研究テーマについてはあまり触れられることはなかったが、ある時、新しく見つかった波、正しくはコンピュータの発達によって扱うことが可能になった、カオス現象に伴う波が面白いのではないかとおっしゃったことがある。

 現在の物理研究室は、主に音響・振動に関連した物理現象の応用として、音や振動の探査技術の開発、音響式体積計の開発、ダンピング計測と応用、及びこれらに関連した計測技術の開発に関する事柄などをテーマとしている。これらのテーマを扱う過程で、超音波を使った隙間の検出装置や、高層建築物の風による揺れを制御するための高性能の振動センサの開発などにも携わっている。現在行っている複合ダンピング材の計測技術の研究は、1960年代に新幹線の鉄橋からの験音対策に関連して研究が始められたと考えられるが、その後30年余りにわたって、全国の多くの方面の人達から計測データに大きな信頼を置いていただけているのは、研究所開設のかなり初期の頃からの粘弾性体の研究の蓄積が大きいと考える。既に研究所報告の第1巻で原理的には現在と同じ方法で各種の材料の弾性率や内部損失の計測を行ってきており、様々な新たな課題に対しても、比較的自然に柔軟な形で対応できることについても、開設以来の歴代の研究者の皆様の様々な無形の技術の伝承に負うところが大きい。板材の屈曲振動は高い周波数ほど伝播速度が大きくなるという性質を持ち、空気との相互作用に当たって特異な性質を表す。また、湾曲板に振動を励起した場合、カオス現象を伴うことがあることも見いだされている。屈曲振動を持つ楽器は非常に多く、振動の性質が複雑なことから、その特性も十分解明されていない。名器ストラディヴァリウスの音の秘密が、ワニスの配合がわからないため解明できないというのもうなずけるような気がする。

 最近の図書室の梯子の3段目より上は、あまり人が腰掛けた形跡はないし、そのような奇妙な使い方をする人はほかにいないのかもしれないが、折をみてまたこれに腰掛けて夜中まで古い本を読みふけってみたい。1965年以前と現在との間にできた深い断崖に橋を架け、カオスやヒューマンファクタと結びつけて粘弾性の物性研究を再開できる時期が間近に迫ってきているように感じられる。これに当たっては、経済のジレンマが発生しないような配慮が欠かせないが、前途はそれほど暗くないように思われる。

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