1996/4
No.52
1. もうひとりのエカテリーナ 2. 航空機騒音問題の歴史(2) 3. 計 算 機 械 4. 騒音振動レベル処理器SV-76

 もうひとりのエカテリーナ

物理研究室 室長 金 沢 純 一

 ロシアの帝政時代の人でエカテリーナといえばまず思いうかべられるのは、かの大黒屋光太夫が漂流地のオホーツクから3年をかけてはるばるペテルブルグ近郊のツァールスコェ・セローまで旅を重ね、この地の夏の宮殿で時の女帝エカテリーナII世と謁見することによってようやく帰国を許されたことであるが、ここではこの女帝と同時代に生き、ロシアアカデミーの初代総裁となり、最初のロシア語辞典を編纂したダーシュコヴァ夫人のことについてとりあげたい。

 アンリ・トロワイヤの小説「女帝エカテリーナ」によると、女帝エカテリーナは1729年4月にポメラニアのシュテッテンで名門ホルシュタイン・ゴットルプ家出身のヨハンナ・エリザベータを母親とし、貧しい小貴族クリスチアン・アウグスト公を父親として誕生しており、ゾフィー・フリデリーケ・アウグスタと命名されている。ゾフィーは、幼少の頃から才気煥発な会話で周囲の大人を驚かせていたとのことで、また両親が近隣の市民階級の子供たちと遊ぶのを許していたこともあって、早くから一群の子供たちを従えて司令官になるようなことも行っていた。10歳の時に母親のいとこがキールで主催した宴会の席において、将来の夫となる3親等のいとこのピョートル・ウルリックと出会っている。

 1725年のピョ一トルI世の死後1796年にパーヴェルI世が即位するまでの間に、ロシアでは宮廷クーデターが6回発生し、女帝が4人誕生している。この間、男の皇帝の期間はごくわずかでロシア帝政時代の中でも際だった特色をあらわしている。イヴァンVI世の親衛隊はその前の長い間の外国人支配に嫌気がさし、クーデターによってピョ一トルI世の次女のエリザベータを帝位につけている。エリザベータは即位後後継者として姉の子のピョートルを指名して養子に引き取り、ピョ一トルと面会した際にそのあまりに幼稚で教養のないピョ一トルを見て失望するが、それでもピョ一トルが17歳になると嫁探しをすることになり、その仕事をプロイセンのフリードリッヒII世に託した。フリードリッヒII世は臣下の娘であるゾフィーを推薦したことから、未来のエカテリーナII世がロシアヘ旅立つことになる。

 当時のロシアは、オーストリア、フランスと同盟関係を結んでおり、フリードリッヒII世のプロイセンとは戦争状態にあったはずで、このような国から皇太子と皇太子妃を呼ぶこと自体何とも理解しにくいように思われるが、この当時の戦争は離散集合の激しい時期であったためこのようなことも不思議ではなかったのかもしれない。エリザベータ女帝はドイツ語のイメージの強いゾフィーという名の代わりに、スラブ人風のエカテリーナ・アレタセーエヴナという名を贈り、ただちにロシア語とロシア正教の教育にとりかかった。エカテリーナもこれに答えるべく深夜まで勉強し病気で倒れるが、心底からロシア人になろうとする心意気は、エリザベータをはじめとして庶民にまで深い感動を与えることになる。結婚9年にしてようやくできた子供パーヴェルはほとんど女帝が離さず、また夫のピョ一トル大公は幼稚で戦争ごっこに夢中で大公妃をほとんどかまうこともなかったため、エカテリーナは孤独を紛らすために読書や文学にいそしむが、このような中でエカテリーナは格好の話し相手を得ている。女帝が大公夫妻のためにペテルブルク西方のオラニエンバウムに建てた別荘の警護を担当するために赴任した近衛士官ダーシコフ公爵の夫人、エカテリーナ・ダーシュヴァで、17歳だったその当時の優れた詩や文章は、大公妃を大変驚かせている。二人はことあるごとに科学、芸術、社会問題を深刻に討議したが、アンリ・トロワイヤの表現によると、後に見境のなさと要求がましさでエカテリーナを憤慨させることになるこの女性もその頃は大公妃にとってこの上ない話し相手であったとのことである。

 ダーシュコヴァ夫人は、ゾフィーがロシアヘ向かう前の年、ロシアの始祖リューリックの流れを汲む名門貴族ヴォロンツォーフ家の姉二人、兄二人の5人目の子供として生まれたが、このとき女帝からエカテリーナの名を贈られている。この小エカテリーナは、2歳の時母親が病死したことから、5歳まで田舎の祖母に育てられ、その後叔父の宰相ミハイル・ヴォロンツォーフに引き取られてフランス語・ロシア語のほかさまざまな令嬢教育を受けるが、12歳の時に麻疹にかかり郊外の別荘に隔難されてしまう。このときの孤独が小エカテリーナの読書欲のきっかけとなったようで、この間の事情はエカテリーナII世と似ている面があり、出会った当初から二人が意気投合したのも納得がいく。二人が出会った時期は、大公ピョ一トルが別の愛人を作って大公妃を疎外し始めた時期に当たるが、その愛人リーザ・ヴォロンツォーフは、小エカテリーナの実の姉に当たる。大公はエリザベータなき後は、エカテリーナを退けてリーザを後がまに据えようとしていることは誰の目にも明らかで、ヴォロンツォーフ家の人々もほとんどがピョ一トル側になびいていた。これに対し、ダーシュコヴァ夫人は実家とは真っ向から対立して大公妃の側につく。ピョ一トルIII世即位の頃はプロイセンに対する決定的勝利寸前の状態にあったが、新皇帝は熱狂的フリードリッヒ賛美者であり、ただちにプロイセンとの戦争を停止してそれまでの占領地のすべてを返還している。皇帝は、軍隊をはじめあらゆる場面にドイツ風を取り入れ、ロシア正教の儀式を馬鹿にしたような態度をとったため、元々民族の誇り高いロシア国民を失望させた。これに対し皇后のエカテリーナは、どのような場面でもロシアの伝統に則った行動をとって国民の信頼を得ることになるが、それが逆に皇帝の怒りを買うようになる。皇后に危険の色が濃くなるに伴い、その友人たちは宮廷革命の可能性について真剣に考えるようになるが、特に時のフランスの代理大使の表現によると「勇気はあるが途轍もなく軽はずみ」ともいわれるダーシュコヴァ夫人は、自分の危険も省みず社交界に出入りする軍人たちを説得し、ついに若い軍人たちのアイドル的存在だったオルローフ5兄弟ほか、多くの賛同者を得ることとなる。宮廷内である日の食事時に皇帝が皇后を侮辱した事件は、あっという間に国民の間に伝わって皇后への同情が期待に転化し、エカテリーナもクーデターを決意する。同士の一人が些細な事件で逮捕されたのをきっかけにただちにクーデターを決行するが、このクーデターはいとも簡単に成功し、皇帝は退位宣言書に署名して女帝エカテリーナII世が誕生する。このクーデターの後、女帝は沢山の賞金と領地を惜しみなく功績者たちに贈るが、オルローフ兄弟の長兄グリゴリーには宮内官の地位を与えて女帝の部屋の近くの特別の部屋に住むことを許し、またダーシュコヴァ夫人には最高女官長の地位を与えている。ピョ−トルIII世の側近や関係者には特に報復措置はとらずに、多くの場合元の身分を安堵している。

 クーデターの1週間後に、ピョ一トルが殺害される事件が起き、女帝とダーシュコヴァ夫人のそれまでの信頼関係に小さな隙間が現れ始める。グリゴリー・オルローフは、ちやほやされるほど成り上がりものの横柄な態度を周囲に見せつけ、それを許す女帝に対してもダーシュコヴァ夫人は失望を感じるようになる。そんなある日、グリゴリーが女帝の個室で寝椅子に寝そべって陛下宛の手紙を開封しているのに遭遇して二人の関係を知るところになり、ダーシュコヴァとグリゴリーの関係は決定的に悪化する。軍や、貴族など多くの人たちによって帝位についたばかりのエカテリーナII世にとっては、その地位は決して安定なわけではなく、あらゆる方面の微妙なバランスをとりながら政治を行う必要があり、特に一般の軍人たちに人気の高いオルローフに対しては絶対に問題を起こすことはできなかった。女帝としては、筋が通っているとはいっても一徹なダーシュコヴァとは相容れず、必然的に自分から遠ざける措置をとることになったと思われる。たとえば、夫のダーシコフ公爵が年若くして戦地で莫大な借金を残したまま急死した際にとった女帝の最大の慈悲が、ダーシュコヴァがその領地を売って借金を返済することを許可したことであった。ダーシュコヴァは自分の夫のこれまでの忠誠に対するあまりに貧しい処置に憤慨し、領地に手をつけずに借金を返済してみせると決意して、ごくわずかな身の回り品だけをもって子供たちと共にモスクワ郊外の自分の領地に引きこもって領地経営に専念し、5年の後には借金を完済している。借金返済のめどがついた頃から夫人は子供たちと共に、西欧の放浪の旅に出かける。この旅行では各地の知識人たちと親交するが、その中でもアイルランド出身のモーガン夫人とハミルトン夫人いう生涯の友人を得たことは、その後英国との深い関わりのきっかけになる。モーガン夫人の同行を得てオクスフォード大学の図書館を訪れた際に、世界中の辞書の揃ったコーナーで、ロシア語の辞書がギリシャ・ロシア語辞典だけだったことが、後年のロシア語辞典編纂を決意するきっかけになったのではないかと思われる。その後息子が学位を取るまでエジンバラに滞在して学問の自由、大学の自治、市民社会の秩序の理念に直に触れることとなる。通算8年にわたる遍歴生活の後、1782年夏にダーシュコヴァ夫人はペテルブルグに戻るが、このころでは既にグリゴリー・オルローフはそばになく、エカテリーナII世の治世もすっかり安定していたため、両者の関係は雪解け状態を取り戻しており、女帝は早速彼女を呼んで科学と芸術アカデミーの院長就任を要請する。一本気なダーシュコヴァは早速その晩辞退の手紙を書いて、隣に住むポチョムキンに口添えを頼みにいったが、逆に「役人たちのせいでだめになったアカデミーを何とかする良い機会だから」と説得されて、結局は就任することになる。このアカデミーは、1724年にピョ一トル大帝によって設立され、研究機関であると同時に大学と中等学校を併設していたが、教育機関としてはあまり機能せず、また院長のポストも売買の対象になるなど、惨憺たる状態にあった。ダーシュコヴァはアカデミーは役人のものではなく、学者のものであるという意志表示を行い、つづいて優れた研究成果の普及に努めるべき方針を打ち出して多くのアカデミー全員の共感を得た。オイラーの論文集、ロモノーソフ全集などを安価で発行したところ、購買者が飛躍的に増大し、アカデミーの収支は大幅に好転した。このほか、講義は原則としてロシア語にすること、教授や助教授の待遇改善、学生たちの居住環境の改善、公開講座の開催などを行っている。

 科学・芸術アカデミーの運営がある程度軌道にのった頃、エカテリーナII世との食事の際にロシア語研究の必要性を何気なく口にすると、女帝もこれに賛同し、ただちにロシアアカデミーを作り、総裁にダーシュコヴァが就任することに決めてしまう。このようなことで、ダーシュコヴァ夫人は2つのアカデミーの長をつとめることになるが、ただちにロシア語辞書の作成にとりかかることになった。そして全員で単語の収集、用例、その整理を行う作業をすすめるが、言葉の配列には、アルファベット順ではなく、語源による配列を選ぶことにする。しかしこの方針は女帝の理解が得られず、エカテリーナとその側近たちは、利用するにはアルファベット順が良いと主張した。このため、ダーシュコヴァは、女帝のいない間に当初の予定通りの配列で編集をまとめてしまい、11年をかけた詳解ロシア語辞典が完成することになる。このほか、ロシアアカデミーができた当初にダーシュコヴァ夫人は月刊の文芸雑誌の発行を行った。この雑誌には女帝もしばしば匿名で寄稿を行ったが、編集に当たっては自由主義的思想をめぐって両者の間にしばしばすきま風が吹き、雑誌の発行も1年余りで終刊になってしまう。このころはアメリカ合衆国の独立、フランスの革命が起き、ロシアを取り巻く諸国にはマソンすなわちフリーメイソンの影がつきまとうが、エカテリーナII世は後になるほど自由主義的神秘主義的なものを特に恐れるようになっている。ダーシュコヴァ夫人の父親はロシアの初期のマソン構成人物の一人であったし、ダーシコフ公爵ともそのつながりで知り合っていることから、ダーシュコヴァ夫人の遍歴に当たっては、ヨーロッパ各国のマソンに関係した人々とのつながりがあったことは十分に考えられるが、知り合ってから女帝逝去までの女帝と夫人の間のつかず離れずの不思議な関係には、マソンの影が関係しているのかもしれない。

 昨年暮れ、1年ぶりにモスクワを訪れた機会にロシア人の知り合い達に、数年前にロシアで出版されたダーシュコヴァ夫人の回想録を探していることを話すと、原子力研究所に勤める彼らにとっては初代ロシアアカデミー総裁の名前はよく知っているものの、遠い国の日本人がなぜそんなことに興味を持つのかと怪訝そうであった。結局、やはり彼女のことに関心があるというロシア人通訳氏がその本を探すのを手伝ってくれたものの、現在のロシアでは書籍の数も種類も少なく、1店ずつ聞いて回る必要があって滞在期間中に見つけることはできなかった。このため、通訳氏が次回のロシア訪間までに探しておいてくれることになった。

 女帝エカテリーナII世は、間違いなくロシア帝政における最も優れた皇帝の一人である。しかしディドロによる、「ロシアはただ一度の善政を手に入れるために、20度もの悪政にさらされざるを得ない」との表現は、まさに現在にも当てはまる言葉といえる。このようなロシアの過去にあって、正当な名門ロシア貴族の家系に生まれ、一本気で妥協を知らないもう一人のエカテリーナが2つのアカデミーに残した成果と研究環境は、帝政時代から現在に至るまでのロシアの人々の大きな財産になっているように思える。

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