1995/10
No.50
1. キーネーシスからエネルゲイアへ 2. ノルウェーの旅 3. インターノイズ95に参加して 4. オーダーメイド補聴器
スーパーミニカナールHI-50K
  
 キーネーシスからエネルゲイアヘ


騒音振動第四研究室 室長 山 本 貢 平

倫理社会の授業
 高等学校の教科には倫理社会というのがあった。ほとんど内容が理解できず、従って人気のない科目であった。あるとき倫理社会の教師が「人間は考える葦(あし)である。」という。しかし、そこは平凡な学生達だけあって、自分達の足元を眺めながら、「この足が‥?、考える‥?、どうやって‥?」などと真剣に考え込む。一方、少し優秀そうな連中は「あのなあ、そういう意味ではなくて、要するに歩きながら考えるとよい考えが浮かぶという人間の知恵を表すんや!」と解説する。笑い話(?)のようであるが、当時の我々はせいぜいその程度であった。
 教師の講義は続く。「16世紀の著名な学者が自我を発見した。これは凄いことだ。」
 一体なにが凄いのだろうか?
「自我というのは、もしかして自分のことか?」
「自分を発見するくらいは学者でなくてもできるんとちがうか?」
「その程度の発見をするのに一生を費やすとは変った人やなあ」 確かに変った人である。しかし、この自我の発見、つまり「我思う。故に我あり」という命題は、今日、我々が抱える諸問題と根源的な意味で密接に関係していることは間違いない。ではこんな命題のどこが、何故凄いのだろうか?

「私」を発見した人
 この発見のいきさつを少し振り返ってみよう。
 私達の身の回りにはいろいろなものがある。目の前の机、窓の外に見える森や山、さらに空の太陽や月などである。私達はその世界の中で生まれ育ち、そして感覚器官を通して、見えるものや聴こえるもの、感じるものを認識している。しかし、はたしてこれら身の回りのものの存在は確かなことであろうか?
 ところが感覚器官はしばしば間違った認識を我々に与える。厳密に疑い始めると、感覚器官を通して認識できるものの存在全ではおろか、概念上の最も純粋な学問である数学の真実さも疑わしくなってくる。その結果、世の中の全ての事柄が疑わしくなり、絶対的に確実なものは何一つないという結論に自然と至る。しかし、一つだけ確実なものがある。それは、何者かわからないがそのように疑っている私自身は確かに存在していることだ。つまり、疑えば疑うほど、疑っている私というものの存在は疑い得ないものである。このようにまるで数学の証明のような方法にしたがって「我思う。故に我あり」という命題が導出された。
 この考えは物質の世界から独立して、「私」というものが世の中に存在していることを明らかにしたことに大きな意味がある。さらに、そのような「存在の明らかな私」が、明晰で判明な認識をもって判断すれば、今まで疑わしいと思われた回りの世界・物質は確かに存在することを逆に証明できることになる。つまり、自我と外界の世界が独立に存在することを証明したことになる。よく言われる二元論の枠組がここに確立されることになったわけだ。
 二元論はその後、事実−価値、物質−精神、物−心、客観−主観、実体−属性のような互いに対立する概念で表現されている。そして、二元論が近年の公害や環境問題、現在も話題となっている脳死問題(あるいは臓器移植問題)、そしてつい先頃、理工系出身の若者が世間を騒がせたある宗教の問題などとも根源的に関連をもっている。近年、事実の世界と価値の世界があまりにも離れすぎてしまった結果、世の中にいろいろと不具合を起すようになった。この原因の出発点に自我の発見があるのだ。

「私」は何者か
 ところで「疑いを抱く私」の存在が明らかであることはわかったが、それではその「疑いを抱く私」とは何者でどこに存在するのだろうか?この単純な問題がさっぱりわからないのだ。
 まず、「疑いを抱く私」とは何者か?実は「私」のことを最もよく知っているはずの「私」が「私」については何も知らないのだ。戸籍抄本を調べればわかるではないかと言われるかも知れないが、そういう問題ではない。私が言っているのは、私はいつ「私」になったのか?そして、「私のアイデンティティ」とは何かという問題である。
 少なくともこの世に生まれた頃、「私」というものの存在はそこ(私という身体の中)にはいなかったと考えられる。まず記憶がないというのが大きな理由である。また、別の何処かにいたという証拠もない。少し成長した頃はどうであろうか?子供として遊び回った記憶はそれぞれあるはずだ。また読み書き、算盤を習った記憶もある。しかし、その時、「私」はそこにいたか?
 否。子供は感じるまま、気のむくまま、天真爛漫に行動することを一日の糧に育つ。そして、まだ「私」はそこにはいなかった。しかし、あるとき突然そこにやってきたのだ。それは何時かといえば、およその検討はつく。心と身体の発育が分化した思春期頃だと思う。しかし、「私」が何処からやってきたのかは全く不明である。
 では、「私」はこれから先、いつまでここにいて、その後何処に去って行くのか?それも不明である。以前にこの欄で次のようなことを書いた。「年月ばかりが矢のごとく過ぎて行くが、うっかりすると記憶の一部が脱落し始めてきた。記憶が全て脱落したときに、なにが自分に残るかは興味深いところである。」
 その答えこそが「我思う」ところの「私」ではないかと想像するようになった。老人性の痴呆症を患い、過去・現在の記憶を失い、そのうえ視覚や聴覚の情報を失って外部世界との接触がなくなった時こそ、純粋な「私」というものがそこに残るのではないかと期待している。おそらく、それは人生の最終場面で明らかとなるだろう。

「疑いを抱く私」は何処にいるのか
 次に「疑いを抱く私」はこの身体の中のどの部分にいるのだろうか?大昔、人の心あるいは精神の座というものは、心臓にあると考えられていた(古代エジプト時代)。心臓が人の生命の源であり、人の思いや悩みといった情とも連動するからである。また、心は肝臓に宿ると考えられた時代もある(バビロニア王国時代)。一方、ギリシア・ローマ時代になると心や精神の座は脳あるいは延髄にあると考えられるようになった。そして、前記の自我を発見した学者は、脳室中央に位置しているとの理由によって、松果体(内分泌腺の一つ)に心の座を求めたのである。この学者は二元論の祖ということもあって、身体を時計になぞられたほどの徹底した機械論者であった。しかし、「考える主体」の方には何やら得体の知れない霊気というものを認めていたようだ。
 18世紀になると解剖学、生理学、心理学の研究が進み、大脳皮質の活動そのものに精神の働きを求める考え方がでてきた。中でもてんかん患者の発作が大脳皮質の局所的損傷に関係することの発見が、その後の大脳生理の研究を盛んなものにした。この研究の極め付きはカナダの脳外科学者ペンフィールドによる精密な実験(1950年代)である。以前、テレビの映像としても紹介されたことがあり、実験方法はかなりショッキングであった。麻酔法と脳外科手術の進歩のおかげでこのような実験が出来たのであろう。実験はてんかん質の患者の頭部を開けて、電気刺激を大脳皮質の局部に加え、実験中の患者にその電気刺激が身体のどの部分でどのように感じられるかを直接答えさせるものであった。大脳の半球断面図で、脳の部位と運動と感覚をつかさどる身体の場所を示したマップはこれらの実験結果が基になっている。保健体育の教科書などでよく見かけるマップで、やけに手を支配する範囲が大きいなという印象を持たれたことがあろう。
 このような実験によって人の運動、感覚さらに記憶などをつかさどるのが脳のどの部分に関係しているかが次々に明らかになっていった。しかし結局のところ、人の心、意志、あるいは意識の座が身体のあるいは脳の何処に対応するのかははっきりとはわかっていない。そして、「疑いを抱く私」の居場所は依然として不明である。
 自我の存在が疑いようのないものと近世の学者は言うが、自我についてはあまりにもわからないことが多い。しかし、だからこそ自我の追求が魅力的なのだ。

事実と価値の世界
 自我の発見以来、科学の進歩には著しいものがある。科学は二元論でいう事実の世界について、次々に新たな事実を発見してきた。例えば科学は宇宙の世界をゼンマイ仕掛けの大きなカラクリ装置であるがごとく説明している。また、「疑いを抱く私」が潜んでいるはずの身体や脳を細かく分解し、電気仕掛けのロボットのごとく説明して行く。さらに、分子生物学という分野では遺伝子レベルにまで入りこんで、生命に焼き付けられた遺伝プログラムを解読し始めている。
 このように、科学は事実や物質の世界を詳しく研究し、その中に自我あるいは精神という、今まだ知られ得ぬ存在までが見つかると確信している。
 ところでつい最近、ある宗教団体の若者達が反社全的行為を重ねて話題となった。彼らのほとんどは理工系の出身者で、かつては成績がよく、目立たなかったような存在であったといわれている。報道されているように、無理矢理自由を拘束されて、薬物などの投与とマインドコントロールを受けた人もいる。しかし、大部分は何等かの宗教書を読み、科学以外の世界にもともと興味を持っていたといわれている。今日そのこと自体は問題ではない。逆に若者達の置かれた状況がある程度理解出来る。何故ならば、科学は物質や事実の世界についてを詳細に説明することが可能であるのに対し、人生の意味、目標、生きることの価値などについては、何一つ教えてくれないからだ。一方、宗教は物質界(事実の世界)、精神界(価値の世界)を含めて全体的なコスモロジー(世界観)とその意味を提供してくれる。つまり、科学は若者が知りたいと思うことをほとんど教えてくれないのに対して、宗教は全てに答えてくれるのだ。結局、今日の問題は自我の発見から確立された二元論において、対立関係にある事実や物質世界と価値や心の世界の乖離があまりにも大きいところにあるのである。特に埋工系の学生は在学中から実験などに追われているため、価値の世界をゆっくり勉強するゆとりがないのが現状であろう。

人間の2つの行為・行動のありかた
 先達から一冊の本を紹介された。現代の諸問題が二元論における2つの世界の乖離・分裂にあるとし、その解消の方法を古代ギリシヤ思想に求めた内容の本である。それによれば人間の行為や行動のあり方には2種類があるという。その一つはキーネーシス(運動)と呼ばれる。もう一方はエネルゲイヤ(活動)と呼ばれる。この2つは実に面白い考え方であり、現代の我々が振り返るべき性質の問題であると考えられる。キーネーシスとエネルゲイヤの違いは次の点に集約される。すなわち、キーネーシスでは行為自体には目的がないが、エネルゲイヤでは行為自身が目的であり、目的が行為に内在している。わかりやすくいえば、目的や目標が常に行為・行動の最後にあり、より早くとかより多くということに価値が置かれるのがキーネーシスである。工業技術は能率や効率を第一の価値と見なして進歩してきた。科学もまた一つ一つ目標としたテーマが達成できれば新たなテーマに移行して行く。つまり、科学や技術自身はキーネーシスという行為のあり方で発展してきたことは事実である。
 これに対してエネルゲイヤは行為自身が目的なのであるから、例えば、旅行に出かける際、より早く目的地に到着することなど全く意味や価値をもたない。その代わり、鈍行列車に乗って一駅一駅の特微や景色などを楽しむことこそエネルゲイヤの思想にかなうものである。また、技術開発の中にあっても、効率至上主義ではなく、自然環境と人間との共存共栄に価値を見い出すようなゆとりのある研究が、行為として実行されるのがこの考えに沿っている。

キーネーシスからエネルゲイヤヘ
 「我思う…」から枠組が確立した二元論ではあるが、今日、その二元の過度な乖離・分裂によっていろいろな問題が発生している。それを助長したのは効率を重んじる行為・行動、すなわちキーネーシスであった。皮肉にもキーネーシスは「より早く、より遠く、より大きく…」というオリンピック勝者の精神でもある。そして、その考えに沿った行為・行動は、確かに世の中を便利にし、我々もその恩恵を享受している。しかし一方、生きがいや人生の意味といった価値の世界が忘れられ、迷える若者が増えている。
 我々は行為・行動の方向を少し転換するべきではなかろうか。そう、キーネーシスからエネルゲイヤヘ。つまり効率や能率主義を排除し、一時一時の行為・行動を楽しむことが出来るエネルゲイヤの思想をしっかり身につけることが必要だ。そのためにも、平凡な学生にも理解できる倫理・社会の講義内容を充実させて行く必要があろう。そして、理工系出身者が盲目的に怪しげな宗教などに走ることのないように、人の生きがいや人生の価値をしっかりと選択できるような、豊かな教育の場が職場や家庭にも求められている。

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