2004/10
No.86

1. 原爆の日に想う

2. 残響室法吸音率測定における室形状の影響

3. 計 算 尺 4. Inter-noise2004報告 5. 航空機騒音のリアルタイム情報公開システム
       <骨董品シリーズ その53>
 計 算 尺

理事長 山 下 充 康

 今日では電卓の普及によって加減乗除はもとより平方根、二乗計算や複雑な関数計算に到るまで手軽に解答を得ることが出来るようになった。電卓の普及によって「計算」が従来よりも飛躍的に容易になったことは確かである。一方、「そろばん」や「暗算」などの古来の計算方法が片隅に追いやられてしまった現実にはいささかの寂しさを感じさせられる。忘れられた計算道具の一つに「計算尺」がある。計算尺の使い方については中高等学校の教科でも教わったものである。「計算尺」と聞いて「そう言われてみると・・・」と当時のことを懐かしく想い起こされる向きも少なくないと想像する。

計算を容易に遂行しようとの試みはエレクトロニクスの登場以前にも様々な形で行われてきた。タイガー計算機やクルタ計算機(当シリーズNo.26「計算機械」)は歯車の回転を利用したエレクトロニクス以前の機械式ディジタル計算機械で、技術計算に広く使われていた。  次表に計算機械の発達の経緯を一覧に示した(そろばん等の数取り器の類は除いてある)(表1)。

表1 主な計算機械の足跡

 古来、多くの発明家たちは人に代って煩雑な計算を処理する道具や機械の開発を試みたようである。上記の表に含まれないが、微分積分の計算をする機械(当シリーズNo.11)や図形の面積を求める機械(プラニメータ)などが考案されている。

 パソコンの普及する前には物理工学の研究者に限らず計算という作業が技術者たちにとって不可欠な要素であり、例えば建築や土木の現場事務所では山積みの設計図にまぎれてタイガー計算機械や「そろばん」が置かれている光景が普通だった。数々の計算機械の中にあってモノサシのような形の棒状の「計算尺」は大変重宝された。今日では姿を見なくなったが、白いエナメルで仕上げられ、黒く細かい目盛りがびっしりと刻まれている計算尺の姿には技術の香りを感じさせられたものであった。学童たちが手にしたのは竹で作られた30cmスケールほどの長さの簡易な種類のもので、初めて手にしたときには「0目盛りのないモノサシ」に落着かない気持ちにさせられたものである。

 計算尺の目盛りは対数目盛りであるから、「1」から始まる。目盛りにはモノサシと違って「0」がない(図1参照)。ここで「対数」の概念を学ぶことになる。説明はいささか厄介になるが[log10(xy)=log10x+log10y] の関係を利用した計算方式で、「掛け算」と「割り算」を容易に計算することが出来る(他に三角関数の計算も容易であった)。原理的な乗除計算の説明を図2に示した。技術者にとって計算尺は医者の聴診器に似て、技術屋の上着のポケットからは常時計算尺が覗いていたほどの存在だった

図1 計算尺端部

[3×30] 

下尺の1を上尺の3に合わせ、下の30に対応する上の数値を読む
[90÷30]
下尺の30を上尺の90に合わせ、下の1に対応する上の数値を読む
図2 乗除計算の説明

 その頃、計算尺といえば「ヘンミ」だった。外国の呼び名と思っていたら日本語、しかも「逸見治郎」という人名に由来すると知ったのは後のことである。逸見治郎は東京神田に生まれた目盛り職人(モノサシに目盛りを刻む職人)であったという。計算尺が発明されたマンハイム(ドイツ)からの原器を元に温湿度の影響の少ない孟宗竹を材料に用いて日本固有の計算尺を作り上げたのが「ヘンミ計算尺」。小林理学研究所にもヘンミ計算尺をはじめ多くの種類の計算尺が残されている(図3)。

図3 様々な計算尺

 計算尺はアナログ計算機である。ディジタルの電卓と違って計算に当たって数字が本来の意味を失わない。有効数字以下の得体の知れない数字を読み取ることが出来ないようになっている。ディジタル電卓が無闇に打ち示す小数点以下の数字の列を目にすると限られた桁数の有効数字に支えられていた科学者の精神が蝕まれるのではないかと懸念されてならない。

 ところで、計算尺は用途によって目盛りの異なる種類が作られていた。室の吸音力や残響時間を求めやすいように工夫された「建築音響計算尺」、電力関係の技術者が使用する「電気技術計算尺」、航空機操縦者に便利な飛行距離、消費燃料、飛行時間、飛行速度などをパラメータにした「パイロット用計算尺」など種類は様々である。どれも今日では実用の場から姿を消したが「対数」を利用しているのは共通で、棒状の計算尺の他に腕時計の文字盤に沿って組み込まれた円盤状の計算尺もある。図4はその一例で、24時間表示の腕時計に対数目盛の刻まれた可動リングが付属し、これが計算尺の役割をしているもので「コスモノート(宇宙飛行士)用」とされている。

図4 腕時計に組み込まれた円盤状計算尺

 繰り返しになるが、「数値」の意味を見失って「数字」にこだわりすぎるのは科学する心を忘れてしまうように思えてならない。計算尺が培った科学者の精神を今一度振り返りたいものである。

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