2004/7
No.85
1. 武蔵国分寺跡について記した新聞紙面より 2. PE法による騒音伝搬とレベル変動の予測 3. 音声分析器(サウンドスペクトロメータ)

4. 第18回国際音響学会議(ICA2004)

5. 第22回ピエゾサロン 6. 3軸振動計VM-54と人体振動測定システム
 
 武蔵国分寺跡について記した新聞紙面より

建築音響第一研究室 室長 小 川 博 正

 当研究所の敷地は国指定の史跡である武蔵国分寺跡に隣接している。今年5月22日付の朝日新聞が『天平宝字年間(757〜765)に創建された武蔵国分寺七重塔は、承和2(835)年に落雷で焼失し、9世紀後半に同じ位置に再建されたと考えられていたが、現在残る七重塔跡の54m西側で創建時の塔基檀(土を突き固めた版築土を何層にも積み重ねた礎石の土台)とみられる新たな遺構が発見され、これまでの定説が覆される可能性が高まった』と報じた。

 多分今から30年位前ではなかったろうかと思うが、バドミントンコートとして利用していた本館裏側が遺跡発掘調査の対象となったことを、紙面に目をやりながらふと思い出した。

 武蔵国分僧寺の敷地の一部と目された箇所がバドミントンコート内にあり、その時たまたま発掘の一部始終を見届けることが出来たのである。確かにその途中を直角に方向を変えた掘割が出現したのを、今でもはっきりと覚えている。

 しかしその時感心したのは確かにあったその掘割では無く、発掘時に無造作にカゴに放り込まれた石ころについてであった。遺跡発掘の担当者は、カゴの中の石ころを興味を持って眺める私に、「この辺りの地層には沢山の遺跡、遺物が埋まっていますが、今回は武蔵国分寺跡の遺跡調査が目的なので、この石の調査に時間を割く訳にはいかないのです。しかしこの石は、実は旧石器時代の人類がバーベキューに使ったものなのですよ。」と語り、私はその時思わず半裸の旧石器人の後ろ姿を目に浮かべてしまったことを思い出した。

 当研究所は武蔵野段丘に位置し、南斜面はハケ(国分寺崖線)と呼ばれて湧き水も豊富で、現在は4km程南へ離れている多摩川も当時はすぐ脇を流れていたようで、人類が生活する環境としては古代から整っていたようである。

 桁外れな数え方ではあるが、旧石器時代から約30,000年後の平成12年8月に当研究所は設立60周年を迎えた。而して記念事業たる新音響試験室棟の建設工事に先立ち、平成12年7月から11月にかけて国分寺市教育委員会による大規模な遺跡発掘調査が実施された。その時の報告書によれば、発掘された遺跡、遺物は、中世、平安、奈良、縄文、旧石器時代へと深さと共に時代を溯り、最終的には2〜3mまで掘り下げた調査が行われたとの事。武蔵国分僧寺跡については概ね想定した結果内容であったようだが、縄文時代の調査では当初予測した中期(今から約5,000年前)より更に古い、縄文時代早期の屋外炉(住居の外に作った共同のカマド)が26ケ所も検出され、調査面積に対するその数量としては、多摩地区周辺でもかなり大きな規模の遺跡である事が確認されたようである。屋外炉は、縄文時代人が移動する生活から定住する生活への過渡期に出現しているが、住居跡の存在は今回確認されなかったという。旧石器時代の遺物については、当研究所周辺では数量の多寡はあるが、これまでの調査によれば石器群が必ず出土していたにもかかわらず、今回は僅かに一点出土したのみであり、旧石器時代遺物の分布については再考を求める結果であったことと記されている(参考 : 国分寺遺跡調査会 発掘調査実績報告書)。

 しかし今、太古の昔からの人間の営みと、その発展の証の数々であるそれら遺跡群も、またもや新音響試験室棟や残響室棟の下に埋もれてしまった。そこで、ふと想ってみたりする。時代の進歩も益々速くなってゆくはずのこれからの数千年後、現在とは生活空間が全く様変わりして宇宙人となった未来日本人が、地中に埋もれている不思議な不整形5角形のコンクリートの塊群と化した残響室棟を発見し、私がバーベキュー跡の石ころに出くわした時と同様に感心したり、或いはまた、現代の私達が考古学上の新しい発見が発表される度に「なんと、それ程の昔に既にその様な事が………」などと驚く様を同様に展開してみたり、はたまた「これが国際地球図書館で読んだ小林理学研究所報告にある残響室なのか。」と感嘆している図などを。それも『グローバルスタンダード』なる単語が無闇にもてはやされる昨今故の事か。

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