2000/10
No.70
1. 研究所と60年 2. Inter.noise2000 会議報告 3. 簡易録音器 [SPEAKEASIE RECORDER] 4. 第10回ピエゾサロンの紹介 5. 音響インテンシティ測定器 SI-50
 
 研究所と60年

名誉顧問 五 十 嵐 寿 一

1 音響研究室入門と戦争
  昭和16年(1941)、私は物理学科を卒業したが、卒業実験の指導を受けていた西川正治先生から、駒場にある航空研究所で音響・振動分野の研究者を推薦して欲しいとの申し入れがあるので、応募してはどうかとのお話があった。以前から航空に興味をもっており、学生時代に航研機が無着陸世界記録を達成したとき、都内を飛行する大型単翼機を見上げて感激したこともあった。またこの頃、卒研で水晶振動子の振動状態におけるX線写真、いわゆるラウエ写真について先生から指導をうけていたときで、波動や振動の分野はこの実験とも関連があると思い、喜んで応募することにした。最初にお会いしたのが初代理事長の佐藤孝二先生である。先生は航空研究所で音響・振動分野の研究を担当しておられたので、研究についての詳しい説明を伺ったが、前年の昭和15年(1940)に創立された小林理研についてもその構想についてお話があった。お目にかかったのは駒場の研究所ではなく、銀座四丁目近くの学生には縁のない高級レストランであった。

  航空研究所には嘱託として入所した。当時はすでに準戦時中で、研究テーマの中には軍からの委託研究として、戦車の防弾鋼板や飛行機のプロペラについて、振動試験によって材料の均質性を判定する実験が行なわれていた。研究室には、後に小林理研で活躍された久保、楯さんがおられて、実験についていろいろ手ほどきを受けることになった。航空研究所には音響の研究室として、佐藤研究室のほかに小幡研究室も同じ研究棟にあって、そこには牧田先生が活躍しておられた。牧田先生には後に研究所の理事もお引き受けいただいたが、その際に先生がかつて研究に使われていた純鉄の丸棒も小林理研に寄贈していただいた。この鉄棒は直径1.5cm、長さが1.2mほどで、中央を支持して端面を打撃すると、棒の縦振動として、2kHzに近い音が音叉のように1分以上続く珍しい音棒?である。

 さて航空研究所に入所してから、学生時代猶予されていた徴兵検査を受けたが、乙種合格、飛行兵として入隊せよとのことであった。佐藤先生から陸軍の短期現役将校の試験を受けるようにすすめられ、受験の結果、年が明けた翌年の一月になって、陸軍兵器学校に入隊することになった。この時にはすでに第二次大戦に突入していた。兵器学校では、約3ヶ月の訓練をうけた後、陸軍技術中尉に任官して名古屋造兵蔽に配属になった。ここでは航空機に搭載する機関砲を製造する部署の工場監督を約1年つとめたが、その後東京の大泉にあった陸軍予科士官学校に配置転換されて、物理の教官を半年位経験した。昭和18年になると、大久保の戸山が原の陸軍第七技術研究所に配属されることになり、ようやく音の研究に戻ることになった。この研究所では、陸軍の輸送船を敵の潜水艦から防護するため、水中マイクロホン(ハイドロホン)やソナーの性能試験等を担当していた。着任して暫くたって、小林理研製作所が生産したロッセル塩の水中マイクロホンについて、感度及び耐圧試験などを行うことになった。これらの海上における実地試験を行うにあたっては、小林理研から河合、小橋両先生も参加され、伊豆海岸まででかけて共同で実験を行ったこともある。この頃佐藤先生は、陸軍の嘱託をしておられたので、小林理研は陸軍七研の分室になっていたようである。

2 終戦と音響研究の開始
 昭和20年の7月、船舶の推進音に反応して爆発する、音響機雷が瀬戸内海に投下されたことがあり、その調査のために広島に出張することになった。このとき原爆に遭遇したことの詳細は、小林理研ニュース21号(1988)に紹介した。終戦になり、廃墟と化した広島から家族が疎開していた岐阜にたどり着いたが、以前勤務していた航空研究所は、米軍によって解散することを命ぜられていたため、復帰することはできなかった。9月末になって、佐藤先生から当分国分寺の研究所で仕事をするようにとの連絡を頂き、ここではじめて研究員として小林理研に籍をおくことになった。国分寺は幸い戦火にもあうことがなく、疎開の必要もなかったことから、戦時中から所内の談話会は続いていた。終戦になって、本郷の物理教室始め近隣の学校や研究所では、戦時中図書や実験機材を疎開したため、研究の開始がおくれていたので、小林理研の談話会へ参加の希望があり、毎週1回のペースで公開の物理談話会が開催されることになった。この談話会には、西川先生はじめ、小林理研の設立にも協力された坂井卓三先生など、多いときには外部からも20名近い参加があり、交代で戦時中に出版された物理に関する外国文献等の紹介が行われた。この頃は国分寺においても、実験機材がままならない時代で、専ら文献について勉強することに集中していた。この年の10月、東大物理教室の小谷正雄先生がご案内役で、皇太子殿下がご学友数名とご一緒に小林理研の見学にこられることになった。当時小谷先生は殿下のご養育係りになっておられ、殿下がその頃小金井の学習院中等科に在学されておられたことから、近くの小林理研におけるご見学が実現した模様である。このとき、私が担当を命じられたのは、本館の玄関脇にあった研究室に、オッシログラフとマイクロホンをセットして、音声の波形をご覧にいれることであった。音声の波形をお目にかけてから、マイクに何かおっしゃって下さいと申し上げたところ、ご学友に君やって見たまえと督促されたことが記憶に残っている。年があけてからは河合、小橋、深田、丸竹さん等と音響の談話会も別途やることになり、それに加えてLord RayleighのTheory of sound Vol.2の輪講と、同時にその翻訳をはじめたが、あまり続かなかったことを記憶している。昭和21年の4月になって、駒場の研究所が航空の研究から撤退して、理工学研究所として発足することが、GHQ(米軍司令部)の承認をうけたことから、私も籍は国分寺においたまま研究生として駒場の研究所に出向することになった。ここでは後にリオンに移られた松浦さん、戦時中前からおられた久保さんと一緒に仕事をすることになった。最初の頃は、戦後再開された工場において、騒音のために難聴の発生することが問題になり、その調査と対策のため、バルクハウゼン騒音計を担いで、製鉄工場や造船所などにでかけることになった。その後戦時中、国分寺の研究所に学徒動員されていた荒井さん、またその翌年からは、小林理研に採用された子安さんも、駒場で一緒に仕事をすることになった。

3 音響学会、理工研(航空研・宇宙航空研)、小林理研
 昭和26年の音響学会の総会において、佐藤先生が音響学会の会長になられ、春秋の研究発表会から各種の学会の事務についても、研究室で担当することになった。学会の騒音委員会が、都内の街頭騒音の測定を計画し、小林理研、理工研がそれぞれチームを組んで銀座周辺の測定を実施したことがある。また、建築音響委員会として、都内で戦災にあった音楽ホールの復興を計画し、戦災から免れて残っている音楽ホールについて、残響時間、音場分布等の測定を行うことになって、徹夜で測定したこともあった。東京通信工業(後のソニー)製のテープレコーダーに、ピストルの衝撃音を録音して、残響時間の測定に応用したのはこのときからである。この頃は騒音対策とともに建築音響の研究も進めることになっていて、子安さんと一緒に、渋谷に建設された、東横ホールやプラネタリゥムの音響設計をてがけたこともあった。そのうち小林理研に残響室を建設することになり、その設計資料としての予備実験が、駒場の理工研でおこなわれた。佐藤先生が昭和28年、第一回国際音響学会議に出席された時に注文してこられた、ブリュエルの高速レベル記録計が、日本に初めて輸入されてこの実験に使用されている。この残響室の形状に関する実験として、久保さんは室の二次元模型による砂図形の方法を新しく考案されている。これらの実験とは別に、音響エネルギーの絶対測定として、レーリーディスクによる測定もこの頃行ったが、無響室の中でディスクが安定するのに一日以上かかるという実験であった。恐らくこの実験が、レーリーディスクによる測定の最後であろう。その後久保、子安両氏と、当時音響学会の事務局の荻原さんも国分寺の小林理研に移ることになった。また学会誌の編集は小橋先生を中心にして小 林理研で行われていた。この頃研究室では、自動車の騒音対策としてマフラーの研究等にもとりかかっていたが、昭和34年には、日本道路公団から高速道路トンネル内の騒音軽減について委託研究を受けることになった。最初はトンネルの排煙塔に設置された送風機の騒音対策で、関門、九州冷水、北海道の礼文華トンネルなどについて調査を行った。引き続いて昭和35年には、名神高速道路のトンネル内における、自動車走行騒音低減のため、内壁に吸音処理を施工することになり、子安さんの協力を得て、小林理研において各種の材料について吸音率を測定した。その結果、発泡セメントが周波数の広い範囲で、吸音率が0.5以上であることが判り、この材料を名神の梶原トンネルに施工することにした。恐らくこれがトンネル内壁を防音処理した最初であろう。続いて翌年には、同じく名神高速道路の千里地区で、片側が解放した半地下トンネルの防音効果の委託研究も受けることになった。このときには、駒場にあった大型の無響室に1/8模型を作成して実験を行った。これらが縁でその後、昭和44年には音響学会としても、日本道路公団から道路騒音予測に関する委託研究を受けることになった。それ以来、子安元所長、山下理事長、山本所長はじめ、歴代の職員による研究成果が評価されて、日本道路公団と小林理研のお付き合いは続いている。

 昭和47年、たまたま名古屋に出張した帰り、東京駅から自宅に電話したところ、佐藤先生が慶応病院に入院されたので至急伺うようにとのことで、信濃町の病院にかけつけることになった。はっきりした声で話をされていたので安心して帰宅したが、翌々日になって病状が急変して亡くなられたことはまことに残念であった。葬儀は2月の雪の舞う寒い日に青山葬儀場で盛大に行われた。先生は昭和30年秋、仙台で学会が開催されたとき、会長として出席されるため東北線の急行で仙台にむかわれていて、偶然(先生はグリーン車)食堂車でお目にかかったが、具合がよくないので今夜にも東京に帰るといわれ、夜の寝台車で帰京され、その後大手術をうけられている。それから15年以上も経過して元気になられたと思っていた矢先であった。

 葬儀の後暫くたって、リオンの三沢社長と小林理研の子安所長から、研究所の理事長を引き受けて欲しいとのお話があった。当時公務員の私立機関への兼務について制限が厳しくなっていたときなので、堅くお断りしたはずであるが、どうして引き受けるようになったのかはっきりとは思い出せない。しかし、兼務については、週に土曜日一日ならばよろしいということで人事院から許可に なった。従って、まことに研究所には申し訳ないことで、室長会議等に出席するだけで、ほとんど子安所長にお任せするような状態であった。この頃は、次第に石油ショックの時代になって研究所の運営もなかなか見透しの立たない状態で、室長会議では議論百出の状態であった。当時の日記には小林理研で研究体制について協議したとだけ記されている。

 昭和52年東大を定年退職して小林理研が本務になったが、この頃研究所は一番窮地においつめられていて、リオンの技術部として再出発するか、あるいは国立の研究機関の分室になるかなど、今では考えられないことを検討したこともあった。

4 研究所創設者小林釆男氏
 こちらに移って間もないときと記憶するが、昔中学で同窓の村井長生氏から連絡があり、自分の義父が小林釆男といって、小林理研とは昔から縁があるので一度会って欲しいとのことであった。村井氏は東宮侍従をつとめておられたことは知っていたが、研究所の創設者が義父にあたるとは初耳であった。その後霞ヶ関の霞山会館で村井氏ともどもお会いして、研究所設立にもかかるお話をいろいろ伺うことができた。このときには小林さんが戦前から進められていた事業のこと、また研究所設立にいたる経緯について伺ったが、物理の基礎研究として、生命科学(ライフサイエンス)の研究が進展することを期待していたと言われたことには敬服した。早速研究所の名誉顧問になっていただいたが、それから一年余りで亡くなられ、研究所を見ていただく機会はなかった。

 なお、村井ご夫妻には研究所の50周年記念式典に参加していただくことができた。

5 終わりに
 このように私が学校を卒業以来、佐藤先生を通じて間接的に、あるいは直接的に小林理研があったと思われる。佐藤先生の後をひきついでからも、多くの方々に支えられて、無事に60年の過去を振り返ることができることに感謝する次第である。

 小林理研ニュースを発刊して今年で17年、はじめはいつまで続けられるかと思っていたが、編集担当の方々の努力もあって、ここまで継続できたことはまことに嬉しい限りである。私が小林理研に移ってからは、このニュースに度々執筆しているので、今回は私と研究所の60年のうち、主として前半の30年について記憶をたどってみることにした

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