2000/7
No.69
1. 半世紀前の小林理学研究所 2. 振動レベル計のピックアップ設置方法に関する研究 3. 第8回、第9回ピエゾサロンの紹介 4. (続)桿秤・天秤・分銅 5. 「補聴器の小型化設計」学会賞受賞に寄せて
 
 半世紀前の小林理学研究所
監 事 時 田 保 夫

1.はじめに
 私は1950年に小林理学研究所に研究生として入りました。1940年が研究所の設立ですから、丁度10年目に入ったことになります。この10年間というのは日本が戦争の真っ直中にあって藻掻いて敗戦、戦後の混乱と復興への序章という時だったので、今考えても大変な時代でありました。まだ人々は食べるのに一生懸命というような状況でしたのに、研究所での生活は別世界というような感じでした。研究という仕事に向かうと研究者とはこんなにまで純粋になってしまうものなのかと感心したものです。しかし学問に熱中する人たちの無味乾燥な生活だけかと思ったら大間違いで、笑いも怒りも喜びも今よりもっと豊富だったのではないかと思うのです。思い出すままに、入所から数年間の当時の写真を前にして難しい話は抜きにして書いてみたいと思います。

 この文章を読んで、殆どの方がご存じ無い方々の話になってしまうとは思いますが、どのような先輩諸先生がどのようなことであったかということを知っていただければ幸いです。

2.研究室
 建物は1968年に建て替えた現在の本館とほぼ同じような造りの二階建てでしたが、研究所の玄関の庇は台風(?)で崩れ落ちたままになっていて、ちょっと寂しい感じのモルタル造のものでした。一階の東側には、超音波の能本研究室が北、南にはX線・電子線の萩原研究室、西側の南には河合研究室、北には事務室と無響室、さらには電池室、水中音響の実験をやった水槽などがありました。二階には音響の小橋研の実験室と西川先生の個室が西側、東側には岡先生の個室、理事長室、会議室が南、北には図書室が控えておりました。

 研究室の体制は理論物理の岡研究室(岡 小天先生)、X線・電子線の西川研究室(西川先生、萩原先生)、超音波の能本研究室(能本先生)、圧電材料の河合研究室(河合先生)、音響の小橋研究室(小橋先生)があり、それぞれに若手副手、研究助手、副研究員、研究員という序列で研究体制を構成しておりました。

 佐藤理事長をはじめ当時の先生方は大学を出たばかりの小生にとっては雲の上の存在のように思えましたが、全く分け隔てのないご指導とお付き合いををいただいて感激したものです。

 戦争が終わった時期には東京の大学や研究機関の多くが研究設備の疎開をして研究もままならない状況であったようで、ここの研究所の活動には、ほかの大学からも非常勤研究員として多くの先生方が来ておられました。

談話会
 小林理研の談話会は一つの名物であったようで、多くの研究者が集まってきて会議室が入りきれないくらいになったこともありました。食糧事情の悪いときだったので、好評だったのは談話会の後でグラウンドで取れた薩摩芋の蒸かしたのが提供され、みんなで食べたのを覚えています。薩摩芋で賑やかにしているなどと陰口をたたく口の悪い人もいましたが。

 我々の発表は順番の表が作られていて、大体一年に2回は廻ってきますので、やっている研究の紹介や勉強の成果などのとりまとめに緊張をしたものです。研究発表会の予行演習も兼ねていたように思います。

Dr.Mott and Dr.Frank の来所
 1953年になりますが、佐藤理事長が物理学会の国際会議で来日した両先生を小林理学研究所に連れて来られました。大変な人(後にノーベル物理学賞を受賞)だと思っていたのですが、本当に気さくな方々でした。岡先生がメモらしきものをちらっと見ながら原稿もなしに両先生の紹介をされて、よく分からない英語の講演を聴いたのを思い出しますが、何の話だったか今は頭の中には残っておりません。 

Mott 博士の講演(会議室にて)
輪講
 当時の若手研究員は実験物理のほうでは、河合研の丸竹正一、深田栄一、時田 昇、武田秋津、小川智哉さん、能本研の池田拓郎、岸本 匡さん、萩原研の加藤範夫、打越 肇さん、小橋研の藤村 靖さんと小生などが集まって洋書の輪講をしたものでした。音響とは全く関係のない F. Zeitz の "Modern Theory of Solid"とか、C. E. Shanonnの "Information Theory"などを読んだ記憶があります。

 藤村さんとは音響の勉強をしようと、Lord Rayleighの "Theory of sound"を読み始めましたが途中で沈没してしまった苦い思い出がありますが、今でも先輩の先生方の書き込みがあるこの書籍が図書室にあります。 

輪講の仲間
左より武田さん、筆者、藤村さん、池田さん、岸本さん、打越さん
3.ゆとり
昼のお話
 昼食は各自が持ってきていた弁当をひろげながら会議室で雑談に興じるというのが普通でした。話題が豊富だったのは萩原先生で、近江八景は?などの質問をしながら蘊蓄を傾けた話を披露し、結構な教養講座を開いてくれました。

松風会の旅行
 松風会は小林理学研究所の職員親睦の組織ですが、箱根に行ったときの写真がこれです。中央の佐藤先生(故)の前には、五十嵐先生と小橋先生(故)がしゃがんでいるのですが、それぞれお子さんを連れての参加です。丸竹先生(故)が竹笛を吹いてひょうきんな顔をしています。写真家を自認した細谷さんが未だ学生服で参加です。非常にアットホーム的な雰囲気の研究所でした。 

松風会の箱根湯元旅行(1951年)

 この写真の方々のその後について記憶が定かでない部分もありますが付記してみます。前列の左から今もピエゾサロンにお顔を見せられる能本先生(東京農工大学、防衛大学校)、事務の北さん(故)、小橋先生(故)、五十嵐先生(東大理工学研究所、小林理研)、工作の寺井さん、深田先生(理化学研究所、日本真空研究所)、工作の畑野さん、二段左から細谷さん(リオン)、杉田先生(一橋大学)(故)、子安さん(音響工学研究所、千葉工大)、事務の橋詰さん、後の列左から池田勇一さん(呉羽紡研究所)、片岡さん(一橋大学)(故)、萩原先生(理化学研究所)(故)、丸竹先生(電気通信大学、明星大学)(故)、河合先生(リオン、横浜市立大学)、大川先生(学習院大学)(故)、斉藤先生(早稲田大学)、岡先生(都立大学、慶応大学)(故)、岸本さん(東京光学)、佐藤理事長(故)、福島先生(都立大学)(故)、事務の大沢さん、中田さん(日立中央研究所)(故)、事務の登坂さん、武田さん(電気通信研究所)(故)、時田保夫、加藤先生(名古屋大学、名城大学)、時田 昇(早稲田大学、米国)、池田拓郎さん(電気通信研究所、東北大学)(故)、図書の広瀬さんです。

碁・将棋
 今の喫煙室のところは,事務室の橋詰さんという方の宿直室になっていて、碁は盛んで、昼の時間には宿直室が満員になる盛況で、時間を忘れて熱中する状態でした。1時には決して終わらなかった覚えがあります。あるときには、能本研究室の実験室の片隅で大川先生と丸竹先生がやっていてみんなで囲んで見ていたところに佐藤先生が入ってこられてから苦い顔をされて出てゆかれ、参ってしまったこともありました。あとでどのようなことになったのかはわかりませんが、結構遊びの時間はあったように思います。碁の丸竹先生、将棋の河合先生だったのではないでしょうか。

運動
 研究所の皆さんは運動をあまりやるタイプには見えないのですが、結構いろいろな運動をやって楽しんだものです。

卓球:今でも研究所では卓球が盛んですが、昔の遊びの少ない時代のリクリエーションとして卓球台が二階の空き室にあって、よくやったものです。河合先生や丸竹先生がなかなかな腕前で、若手を相手に奮闘しておりました。

野球:今の残響室の前のところは長い間グラウンドでしたが、当時はまだ整地もされていない状態で、食糧確保のための畑になっておりました。野兎がいたのを覚えております。野球は道具がどのように集められたのかは覚えておりませんが、各自が持ち寄ったのを使ったものと思います。リオン(当時は小林理研製作所)と対抗試合をやったのですが、場所は当時の鉄道教習所(後の鉄道学園、今は整地されて住宅が建てられている場所)のグラウンドを借りてやったものです。当時のメンバーの元気なシャツ姿を写真で見てください。 

野球チーム
前列左より岸本さん、藤村さん、丸竹先生、学生、

後列左より織田さん、学生、時田 昇、著者、加藤さん、細谷さん、武田さん
 
バドミントン:現在の本館北側の駐車場になって舗装されているところも土のままでした。丁度日本にバドミントンが入って来たころだったのですが、福島先生がルールを教えて下さって、用具をどのようにして揃えたのか分かりませんが、相当早くに研究所でバトミントンをやるようになりました。リオンとも対抗試合をやって、結構な成績を収めたものです。

音楽
 研究所の本館の裏にある別館では空き室があったので、半ドンだった土曜日の午後などには男性コーラス、時間後には弦楽四重奏などをやっておりました。皆さんはなかなかなもので、指導者は多才だった丸竹先生でした。 

お花見
 桜の時期には何処かでお酒を仕入れて皆で花見に多摩湖まで出かけもしました。 

4.終わりに 
小林理研が創立60年という人間で言えば還暦にあたる年月を経過したのですから、すばらしいものだと思っております。その研究所がまだ若々しかったころに諸先輩とともに青春を過ごさせてもらったということが、如何に私のその後の糧になったか計り知れません。まさに青春が其処にあったと思っています。

『「青春」とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。(Samuel Ullman)』という言葉の重みを、あれから50年経った今、かみ締めているところです。

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