2000/7
No.69
1. 半世紀前の小林理学研究所 2. 振動レベル計のピックアップ設置方法に関する研究 3. 第8回、第9回ピエゾサロンの紹介 4. (続)桿秤・天秤・分銅 5. 「補聴器の小型化設計」学会賞受賞に寄せて
       <骨董品シリーズ その37>
 (続)桿秤・天秤・分銅
理事長 山 下 充 康

 古いオランダ絵画の中に手元に保有していた正体不明の骨董品と全く同じ品物を発見してこれが「分銅」であることを知った。件の絵は16世紀初頭の画家「クエンティン・マセイス」による「両替商とその妻」で天秤と数種類の分銅が克明に描かれている。これについては前稿「骨董品シリーズ その36」で詳しく紹介したが、マセイスの作品が世にあまり知られていないのと分銅の形が珍しいことから、くどいようだがここに再度掲載させていただくことにする(図1、図2)。 マセイス(1465〜1530年)の没後ほぼ100年、オランダのデルフトに「ヤン・フェルメール」が誕生した。今年の春から大阪市立美術館で開催されている「フェルメールとその時代展」は大層な人気を呼んでいる。訪ねられた方々も少なくないことと推察するが、フェルメールの代表的な作品五点を一堂に集めて観ることが出来る機会にはそうそう恵まれるものではない。
図3 フェルメール「天秤を持つ女」(部分)
(ワシントン・ナショナルギャラリー) 

 展示作品の一つ、「天秤を持つ女」(図3)はマセイスの「両替商」よりもひとまわり小振りの作品である。両者ともに寓意の道具として「天秤」が描かれているが、計算し尽くされたような構図とバランスの取れた色彩の点で巨匠フェルメールの方に軍配が上がることであろう。フェルメールは天秤を持つ女の背後の壁に「最後の審判」の画中画を置くことによって大天使「ミカエル」が善人と悪人を区分けするための道具であるところの「天秤」(魂の重さを測る秤)をイメージさせる。画中に分銅が見当たらないが机の上には宝石箱の横に木箱が置かれ、これが銅入れのようにも思える。当研究所の理事をお願いしている難波精一郎先生がこのニュースに「騒音を測るということ(1996年10月No.54)」という一文を書かれているが、その中で天秤ばかりを例に挙げて「計測」はすべからく「マッチング」を見極めることであると述べられた。確かに天秤は重さを測る道具であるが、「最後の審判」で天国行きと地獄行きを決定する大審判に使われる道具であるだけに計測の原点が天秤にあるように感じられる。

 小林理研の備品室には前稿で紹介したようにロッシェル塩の結晶の重さを測った高感度化学天秤から吸音材料の「かさ比重」や遮音材料の「質量」を求めるのに使われた大小の「台ばかり」まで様々な「はかり」が遺されている。それらの「はかり」たちに加えて折りある毎に求めた「はかり」が骨董品展示室の一隅に集められている。その中から特徴的な姿の「はかり」の幾つかを紹介させていただくことにする。
 

   図4はスペインの上皿天秤と分銅。天秤のバランスを確認しやすいように左右の皿置き部分からツノを突き合せるような形で小さな金属のアームが伸びている。派手な彩色が施されている。粗雑な造りであるところから、教育用玩具であると想像する。 

図4 スペイン上皿天秤(教育用玩具か?)
 図5はイギリスの古い台ばかり。本体は堅牢な鋳物で計量単位はポンド。台皿の部分が十字形の支えになっているが、縦横の長さが異なっているのに注目されたい。本来はこれに楕円形のザルが取りつけられていたものである。ザルと言っても八百屋のそれではなく赤ちゃんを載せるザルで、母親の枕元に置かれていた赤ちゃん用の体重計。文字盤の数字の字体がレトロである。 
図5 台ばかり(英国)支えの縦横の長さが違う。
楕円形のザルが乗せられていた。赤ちゃんの体重計 
 数字を0から14まで中心からの放射方向に書き並べたところまでは良かったものの6時を過ぎて15を書くのに困惑したらしく、ここで数字の向きをくるりと回転させているのが面白い(図6)。 
図6 台ばかり(英国)レトロな字体の文字盤(ポンド単位)
 図7は小さな楕円形の受け皿が備えられた卵専用のはかりで単位はオンス。郵便物の重さを簡便に測る「ポストスケール(図8)」と同じ「振り子型固定分銅」のはかりである。 
図8 郵便物用のはかり

 物理量の中でも「重さ」、「長さ」、「かさ(体積)」は生活に密着した存在で、これらを客観的に規定するために度量衡三器には国家レベルでの管理が要求されてきた。

 日本では1875年の度量衡取締条例による近代国家としての度量衡統一、1891年には度量衡法が制定された。1951年には度量衡法をより広い目的に対応し得る「計量法」に改正された。

 旧い町並みを歩いていたとき「モノサシ・ハカリ・マス(物指し測ります?!)」という奇妙な看板を掲げた商店を見かけた。店内を覗くとガラスケースに万歩計やら方位磁石などが並べられ、竹尺や升は店の隅に追いやられていた。「測る」ことは商取引に欠くことのできない行為であるはずなのだが、今日ではパッケージされた商品に印刷表示された数字を信じて疑わない。他人を疑わずに過ごせる世間は誠に好ましいが、時には自分の手と目で長さや重さや量を測ってみたら如何なものだろうか。

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