1993/1
No.39
1. 十歳を迎えた[小林理研ニュース] 2. 環境騒音問題の推移 3. バルクハウゼン式騒音計 4. 第14回国際音響学会議周辺 5. 超音波診断装置 UX-01
        <会議報告>
 第14回国際音響学会議周辺

騒音振動第三研究室 佐 伯 誠 一

 旅客機の機内騒音も、長時間になると、気付かないうちにかなりの疲労をもたらすようなので、近頃耳せんを携行するのが習慣となっている。また、機内の空調も睡眠には適当でないことが多く、飛行機に乗ると、まず毛布を借りることにしている。この日、手荷物として機内に持ち込んだカバンの中には、北京の観光案内と中国語会話のテキストが入っていたが、どちらも新品同様であった。それは、観光よりもまず発表、そして中国語よりもまず英語という、危機感とも脅迫観念ともいえるものが頭から離れず、とても下調べどころではなかったためである。観光気分は一向に高まらず、発表準備のための連日の寝不足もあって、盆正月の帰省の旅と同じように耳せんと毛布のお世話になってしまった。1992年9月2日の昼過ぎのことである。

 

 国際音響学会議(ICA)が3年に一度というオリンピックなみのインターバルで開催される、由緒ある、格調高い国際会議であるということを知らず、安易な気持ちで申し込んでしまった。今回で14回目となるこのICAがアジア地域で開かれるのは、1968年の東京以来、2度目のことである。8日間の会期中、騒音、振動、建築音響、音声など音響のあらゆる分野から700件にのぼる発表が予定され、4分冊になった予稿集は4kgを超えていた。その会場となった北京市の郊外、二十一世紀飯店および併設されている中日青年交流センターは、ホール、会議場、プール、テニスコートまでも備えた、堂々たる容貌。音響学の権威の先生方を迎えるのに相応しい…建物ではあるが、その周辺はといえば、まず会場前の道路がかなり長い範囲で工事中。晴れると土ぼこり、雨が降るとぬかるむという、散歩も遠慮したくなるような最悪のコンディション。もっとも、そんな中でもジョギングを欠かせない方もおられたようだが。この道路を自転車がきれまなく走るさまは、模型実験で用いる線音源を連想させる。中国において自転車は、通勤・買物の足としてのみならず、様々なものの運搬にも用いられている。例えば、野菜など山積みの食料品、中華風クレープの移動販売店、あるいは2〜5人の家族、果てはソファー(応接セット!!)のような家具に至るまで、リアカー、サイドカーを取り付けることによって、あらゆるものに対応している。夜間工事用の照明と発電機まで車載(自転車に搭載)されていた。道路を隔てた反対側の緑地では、ラクダが一頭のんびりと草を食んでいた。ホテルの17階の部屋からはこれらの様子が一望できた。窓のくもりが気になったので、怖い思いをしてガラスの外側を拭いたのに一向にきれいにならず、実は内側のほうが汚れていることに気付く、ということもあった。きれいになった窓ごしに北京市中心部の夜景を楽しむことができた。

 研究所からの一行5名でホテルの中華料理店に入った最初の夜、英語も日本語もほとんど通じないため、食事は難航をきわめた。まずメニューを開いて、限られた漢字の知識で料理を想像することから始まった。注文が厨房に伝わっていなかったり、注文と違うものが届けられたりで、とにかく安心して料理を待っていられない。スープ、飲物、デザートと苦労を重ね、最後に勘定でも不安を残した。結局、食べたのと同じくらいのエネルギーを使い果たして店を出たのは、食卓についてから3時間後であった。

 

 そういえば、9月3日のオープニングセレモニーの最後に、民族音楽の演奏が披露された時は、「次は音楽です」というそっけないアナウンスでいきなり始まり、そして曲や楽器の解説もなく終わってしまった。この聴衆を突き放したような進行は、両替や買物の際に、紙幣を投げ出すように渡されるのと似たところもあるが、慣れてしまえばなんでもないのかもしれない。

 開会のあとは、引き続き全員を対象とした招待講演があった。会期中、様々な分野からこのような講演が全部で12件行われた。一般のセッションは10の部屋に分かれてテーマ別で進められた。山下所長の発表は、首脳会談でも行えそうなソファーが並べられた部屋で、リラックスして聞くことができた。かと思うと、筆者の発表では階段状の講義室が用いられ、聴衆の視線を一斉に浴びて緊張感が高まるということもあった。このように部屋の設備や大きさもまちまちであったが、ドアが前方にある部屋が多く、発表途中での出入りには気を使った。国際会議では珍しくないのかもしれないが、発表のキャンセルが少なからずあり、その場合は突然20分間の休憩。地元中国の方の発表が多く、かれらの流暢で、しかも四声を駆使した(?)英語は、筆者の理解力を超えていた。(もっとも万国共通語であるはずの数式は、それ以上に理解できなかった。)  やはり日本人の英語がいちばん気が休まるものである。中国、日本あるいは韓国の人たちは、顔つきが似ていても、服装、ふるまいなどの雰囲気がどことなく違っている。また、欧米人のshareする気質によるものか、連絡用のボードがいつのまにか、空港や観光地までの「タクシーの相乗募集中!」とか「テニスの相棒求む!」、「予稿集売ります」といったメモで占められていて、感心させらてしまった。

 旅行先で最も興味があるのは、現地に住んでいる人たちの普段の生活である。ホテルの近くに工業地帯(工場制手工業?)があったのでしばらく歩きまわり、ちょうど昼時だったので、国営第何号という小さな食堂に入ってみた。庶民の食事をと思ったのだが、ここでも言葉の壁は厚く、庶民的でないものを食べる結果となった。となりのテーブルを指差して、同じものを頼めば良かった、と後悔した。北京を発つ前日、再びこの店を訪れたときには記念撮影を試みた。結果はご覧のとおり、フレーミングに多少問題があるのは、持参した使い捨てカメラに不慣れだったせいかもしれない。 最終日の閉会セレモニー、定刻の5分遅れでホールに入った時にはすでに終わっていたらしく、役員の方々がお互いに労をねぎらっているところだった。次回は1995年にノルウェーのトロンヘイムで開かれるというアナウンスもそこであったはずである。こうして長かったICAも無事幕を閉じたわけである。

 ちなみに、閉会のセレモニーを録音しようと買った日本製輸出仕様のカセットテープは封を切ることもなく、今も自宅の棚のスミに眠っている。

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