1993/7
No.41
1. 満州・夏・父兄参観日 2. ISO2631の動向−全身暴露振動の評価− 3. 津村節子著
茜色の戦記(新潮社)
4. 計測震度計 SM-13
  
 津村節子著 茜色の戦記(新潮社)

所 長 山 下 充 康

 国分寺駅の前には多少の商店があるが、そこを通りぬけると松や楢や櫟の林がひろがっており、途中に小学校があるだけで人家はまばらであった。小川を越えるあたりの低地は田圃になっており、ところどころに別荘風の旧家が点在している。(中略)疎開するならば国分寺のほうが安全だと思われるほどのどかな風景であった。

 小林理研は、そうした武蔵野の雑木林の中にあった。からたちの垣根をめぐらした広い敷地の正面に、木造二階建の本館らしいこじんまりした建物が見え、初出勤の私を威圧することなく迎えてくれた。

 横長い建物の中央が正面玄関で、玄関の右手が事務室になっていた。私がその窓口で氏名を告げると、女の事務員が私を二階に案内した。二階の廊下をはさんで、一方に研究者たちの研究室、反対側に図書閲覧室や書庫、実験室が並んでいる。

 女子事務員はその中の、三島研究室と書いてある部屋のドアをノックした。はい、とおだやかな声で返事があった。………]

 昨年(一九九二年)、文芸雑誌「新潮」の十一月号に掲載された津村節子著「茜色の戦記」が、今年の四月、ハードカバーとなって新潮社から刊行された。

 冒頭の一節は「茜色の戦記」に記述されている小林理学研究所である。ハードカバーの文学書に小林理学研究所が実名で登場したのは、おそらく初めてのことであろうし、ここを舞台に展開されたであろう出来事をこんなかたちで読む機会に接するのも珍しい。

 その当時の研究所の有様が極めて詳しく、しかも生き生きと記述されているので、ここに「茜色の戦記」を紹介させていただくこととした。  

 著者、津村節子氏は、旧制中学校を卒業しようとする最も多感な時期に、大平洋戦争の終結期を迎えていた。著者の言によれば、戦後四十八年を経た今、埋もれつつある戦争体験を一冊の長編に著したのが「茜色の戦記」。

 B−29による帝都東京の爆撃、米軍の沖縄本島上陸、極端な物資不足……総ての国民が戦争を日常的な出来事と感じている時代、第一線の兵士のように直接的な戦闘体験ではないが、日本国民である一少女の心に受け止められた戦争がどのようなものであったのか。この作品を読み進めるうちに、記憶の奥深くにしまい込まれている戦時中の事柄があれこれと思い起こされ、奇妙に懐かしい。

 昭和十九年「決戦非常措置要綱」が閣議決定されて、十四から二十五歳までの未婚女性が女子挺身隊として軍需工場に動員されることとなったことから、主人公の「私」も一時期、「北辰電機」に勤務し、ジャイロコンパスの製造工程の一部でリード線のハンダ付けをする作業にたずさわっている。

 当時、文部省が科学研究補助技術員の募集をした。戦力増強のため、科学者のよき助手を養成する目的で養成所が新設され、ここでは授業料なしで専門的な学問技術が習得できる上に、毎月二十円の補助金が支給された。ただし、これには卒業後の二年間、文部大臣指定の研究所に勤務する義務が伴った。

 「私」は養成所の選考試験にパスし、ここで写真技術を学んでいる。そして、卒業後の勤務が義務付けられている文部省指定の研究所として「私」が選んだのが小林理学研究所であり、冒頭のくだりということになる。「茜色の戦記」は三章からなっていて、小林理研は敗戦の色が次第に濃くなる第三章に登場する。

 研究補助員として小林理学研究所に勤務した「私」はロッシェル塩の結晶を天秤で計るとか、カメラで文献の複写をするといった研究補助員らしい作業をさせられてそれなりに満足しているが、なにぶん戦時中で物資不足のそんな時期のこととて研究らしい研究が推進されるはずがない。

 ある日、学徒動員で一高生が入所してきて、かれらのための講義が始まり、「私」もその仲間に入ってチンプンカンの講義を聞く。「数学演習」、「物理学演習」、「交流理論」…当時の女学生には難解きわまりない。

 ここに登場する研究者の一人、「私」の直属の上司、三島博士(実際には三宅静雄主任研究員)の部屋には杉並の自宅から疎開させたという蔵書があって、なぜかこの蔵書が文学書、しかも翻訳小説ばかり。当時の社会情勢のもとでは、これらの文学書は貴重品である。活字に飢えた女学生にとって三宅先生の蔵書は宝の山であったことであろう。考えようによっては、この時の文学書との出会いが「私(津村節子氏)」をして今日の女流作家にさせたきっかけであったのかもしれない。

 研究員や一高生、陸軍の監督工場として設立された別会社である小林理研製作所(現在のリオン株式会社)の監督に派遺された陸軍中尉までが研究所の裏に開墾した畑で農作業に励んだり、敵性語の英語やドイツ語の勉強をしたり、当時の小林理研の生活はけっこう活気に満ちていたらしい。

 親しい知人にこの書物を贈ったところ、小林理研の「50年史」と照らし合わせて、登場人物の実名を推理した上で、「小國民の頃を想ひ出し、懐旧の情一入で一気に讀了いたし候」とのお便りをいただいた。

 空襲警報下の灯火管制、広島と長崎に落とされた新型爆弾、ヒットラー総統の死、ソ連の対日宣戦布告等々が戦争の終結を予感させる時期であった。
 「戦争から隔絶されているような静かな研究所の庭に、ある日何か白いものが舞い落ちてきた。庭へ出て捨って見ると、文字が印刷されている。ビラは何枚か落ちていて、他の人々も捨いに出てきた。(中略)研究所の所員たちや、一高生たちも、ビラを捨って読んでいた。が、かれらは別段驚いている風には見えなかった。むしろ、予期していたかの様子だった。いったいこの人たちは、この信じ難い内容のビラを、そのまま受けとめているのだろうか。」

 研究所の事務室に保管されている書類の間から、その時に舞い落ちたビラと思われる数枚の紙片が出てきた。変色はしているが、文字を読み取るに難くない。これも骨董品の一つであろう。

 「茜色の戦記」の最後は、今も変わらぬ蝉の声で締めくくられている。
 「からたちの垣根をめぐらした小林理学研究所を出る時、私は戦争末期の六箇月を過ごした建物を振り返った。あまりにも戦争に対して非協力に思われて、批判的な気持ちを抱いていた研究所が、急にたとえようもなく懐かしく思われた。
 周囲の林から、夏を惜しむようにせいいっぱい鳴きしきっている蝉の声が、私の体を包み込んで来た。」

 「茜色の戦記」は書店に平積みにされているから、今なら容易に入手することができる。茜色の空を背景にした都立第五高等女学校の校舎とセーラー服の女学生が版画風に描かれた表紙が洒落ている。

 一読をお薦めしたくなるのは、太平洋戦争を体験した者が感じる単なるノスタルジアばかりではないように思う。

 最後に、本書の題名の由来と推測される文章を転記させていただくことにする。悲しく、衝撃的な情景である。

 「(p.203)空は夕焼けで、茜色に染まっていた。人気のない畑の中の道を、私と同じ年恰好の女学生が歩いて行くのが見え、私は彼女に追いつこう、と足を早めた。空襲になった時、一人よりも二人のほうが心強いと思ったのだ。
 その時、彼女のズボンの据から、何かが落ちた。彼女はそれに気づかぬように歩いて行く。
 私は、落し物を教えてやろう、と思い小走りになった。近づいて見ると、それは、屏風だたみにした新聞紙で、少し色の変わったかなりの量の血液が染みていた。
 私は、それを目にした瞬間、なぜともなく、もう駄目だ、と思った。(中略)タ焼けの西日のもとに晒されている屏風だたみの新間は、夜空からいっせいにシューシューと音を立てて落ちてくる焼夷弾ほどの恐怖を、私に与えたのだった。
 私は、その場に立ち竦んだまま、背をかがめ加減に歩いて行く女学生の後ろ姿を見つめていた。…………」

 この紹介記事は著者津村節子氏の了解を得た上で書かせていただいた。抽文をお許しいただきたい。

 過日、作品の出版を機会に三宅先生を囲む当時の仲間たちが小林理研を訪問され、国分寺地域の変様に驚かれつつも、昔の面影を残す所内の各所で、懐かしい一時を過ごされたことを書き添えておく。

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