1993/7
No.41
1. 満州・夏・父兄参観日 2. ISO2631の動向−全身暴露振動の評価− 3. 津村節子著
茜色の戦記(新潮社)
4. 計測震度計 SM-13
  
 満州・夏・父兄参観日

理 事 石 井  泰

 人が自分のふるさとを想うとき、その人の人生のどの時期を過ごした土地のことを思い浮かべるのだろうか。生まれてからずっと一か所で育った人にとっては何の疑問もないが、私のように子供のときに何回か転地を経験した者にとっては、「あなたの故郷は」と聞かれる度に、それはいつも問題になることがらである。しかし、いまの私にとっていちばん懐かしく思い出されるのは、小学校低学年の時期を過ごした満州(現中国東北部)の新京(現長春)である。それは、いまでは簡単には行かれなくなってしまったことでノスタルジーが増幅されていることもあろうが、やはりその時期に受けたいくつかの原体験が強烈に印象づけられているからだろうと思う。

 私の父は建築技士だったが、その仕事の関係で、私は小学校一年生のときから三年生のときまで、昭和13年から16年までの3年間を新京で過ごした。新京中央駅から真南に向かって幅50mほどの広い街路が延び、それを2kmほど行った市のほぼ中心に大同広場という直径約200mのロータリーがあり、それを囲んで中央銀行や首都警察庁、電電公社(中共放送局)などのビルが建っていた。自宅はその広場から一路西へ入った熙光路に沿って建てられた集合住宅の中の一つで、そこから半径500mが私の行動範囲だった。はじめて補助輪なしで自転車に乗れた日などというのは子供にとって重大な記念日だが、私の場合、それは二年生のときの夏で、大同広場の電電公社前の道路でだった。

 学校は自宅から西北に子供の足で30分位のところにある白菊小学校という日本人小学校に通っていたが、年に数回父兄参観日というのがあった。父兄といっても来るのは若いお母さんたちだけだったが、教室の後ろのほうにそのお母さんたちが立ったまま並んで授業の様子を参観するわけである。

 三年生のときの初夏の頃だったと思うが、ある父兄参観日にたまたま理科の授業が行なわれた。担任の先生は吉本先生とおっしゃる若い独身の男の先生だったが、先生は山彦の話をされ、黒板に絵を描いて声が山腹で反射する様子を説明された。そして生徒のほうに向き直って、
「ところで、誰か山彦を聞いたことのある者はいないか。」
といわれた。しかし郊外に出てもただ一面に高梁畑が広がっているような新京に住んでいて、山彦を聞いた経験のある生徒などいるはずもなかった。
「この中で誰か山彦を聞いたものはいないか。」
先生は再度たずねられたが誰も返事をする者はなく、しばし沈黙の時間が教室に流れた。私はこの気まずい雰囲気を打ち破ってやろうと思い、自分の席から勢いよく手を挙げた。
「ハイ!」
「お、石井か、どこで山彦を聞いた。」
「ハイ、学校の便所の中で聞きました。」
「ん?…」
 実は郎下の端にあった学校の便所は、床だけでなく、壁も上の方までタイル張りで、いまでいう残響時間がとても長い部屋だったのである。
「ハイ、便所の中で大きな声を出すと、周りの壁で音が反射して、わーんわーんと山彦が聞こえます。」

 そのとたん、後ろのほうのお母さん連中や生徒たちの中からどっと笑い声が上がった。先生も大口をあけて哄笑された。私は万座の中で恥をかいた気分で真っ赤になり、なにもいえずに下をむいてすごすごと着席したが、心の中は不満で煮えくりかえっていた。
「なんだ!音の反射ということからすれば、山彦だって便所の中だって同じことじゃないか。」
「先生も先生だ!せっかく座を盛り上げようと思って手を挙げたのに、一緒になって笑うことはないじゃないか。もうこんな余計なサービス精神を発揮することは金輪際すまい。」
 もちろん、当時「サービス精神」とか「金輪際」などという言葉を知っていたわけではないが、とにかくその日はひどく打ちひしがれて、路傍の石などに当たり散らしながら家に帰ったことは覚えている。私の母親が当日授業参観に来ていたかどうか、来ていたとしてもこの件を覚えているかどうか、一度聞いてみようとずっと思っていたが、とうとう聞かずじまいになってしまった。

 後年、私は音響工学に深く関わることとなり、今日に至っているが、いまでも初夏の季節になると、この父兄参観日の思い出が、満州の爽快な夏の日差しの輝きや、馬車に乗って街を走ったときに顔に受けた風の感触などと一緒になってよみがえってくるのである。

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