1994/4
No.44
1. 個人的に"謎"めいた北京への旅 2. 電磁型オシログラフ 3. 新時代の防水式補聴器HB-54
 
 個人的に"謎"めいた北京への旅

建築音響研究室 室長 小 川 博 正

 平成4年9月2日、小林理研からの5名を含む第14回ICA出席の一行を乗せた、日本航空のジャンボジェット機は雲一つ無い初秋の青空の中、北京に向かって飛び立った。初めて中国大陸を踏むとあってさり気なさを装いながらも心中期待に弾む。妻の進言に従い、出で立ちもオフホワイトでまとめてみた。我ながらまさに初秋の風情……。機中で少しばかりほろ酔いになったのはアルコールのせいばかりではなかろう。かくして、四時間の後にジャンボジェット機は北京国際空港に着いた。

 思えばこのときから、ブランド品の小物で身を固めた、よそゆきの心を徐々に"謎"なるものが、とって変って支配し始めたのである。

 あと数人で入国手続きというときに、係官(若い女性)がカウンターブースから全く突然にふらっと長蛇の列を尻目に出ていったきり、なかなか戻って来ないのである。近くに立っている制服の職員も並んでいる人々に説明するでもなく、知らん顔である。このままずっと立っていても入国できなくなる訳ではなかろうが、ついぞ日頃の習性が落ち着きを許さない。暫くして業を煮やした列の前方の人達が交渉を始めたが要領を得ず、仕方なく他の列に並ぼうと我々が移動しかけた時、係官である若い女性はふらっと戻ってきた。この間約15分。−わからない。

 それでも入国手続きが終り、ツアーで用意したバスに乗り歓談の内に無事我々は宿泊地である、21世紀ホテルに到着した。しかし空港での序章に次いで、明らかに、"白髪三千丈"風の悠久なる時は流れ始めたのである。我々はロビーのソファーで長い時間をすごした。添乗員の女性がチェックインの手続きに誠心誠意尽くして、走り回ってくれたにも関わらず、ホテル到着から部屋に入るまで2時間。−わからない。

 午前10時の機内食のみで昼食抜きだったことから、夕食は早目の5時に取ることとなった。ホテルは北京の郊外に位置し、周辺は比較的閑散としており、すぐ前の草地ではラクダが草を含んでいるという贅沢且つ極地的な光景。到着当日であることと合わせ、とても外へ食事に出る気分も湧かずホテル内で済ますことにした。

 ホテルには3か所にレストランがあり、本日は無事到着の祝いに豪華「海鮮料理」と意見は一致。総勢5名の内の一人が席を取るための交渉に赴くと、受付の美女(本当)が突然メニューを持ち出して来たことから、メニューの検討が先に始まったようであるが、結局話が良く通じないまま我々は席に付いた。

 さて本当に、真剣にメニューを検討したが、中国語の他に英語の付記があるにも拘らず意味不明で、ボーイに説明を求めるがこれまた殆ど会話にはならない。それではと、このNo.1〜No.5までを各1人前づつと注文する。

 No.1魚の蒸し煮、 No.2海老、 No.3蟹料理、 No.4,5はボーイ曰く当レストランお薦め品、その他スープ2種、焼飯、そば等つぎつぎと注文する。 No.1の魚は生簀からバケツに入れ、我々のテーブル迄まで持ってきて、これからこの魚を料理すると言わんばかりの身振りを見せ厨房へと運んで行った。待つことしばし、先程の魚が見事に蒸し煮として登場してきた。しかし、その後が続かない。じっと立っている美女達に注文を確認しても、愛矯よく笑ってごまかすか、突然「少々お待ちください」の日本語の返事が返ってきてビックリさせられる。本当に意味が通じているか見当が付かないまま、注文品未到着の内にハシや皿を片付けられてしまい、デザートを注文する方向に持っていかれてしまった。仕方なくデザートには西瓜とココナッツジュース(タピオカ入り)の2種をオーダーする。

 デザートを待つ間、食べなかった料理の勘定はどうなっているのか不安になり、手持ちのガイドブック(実は部屋まで取りに帰った)で、「勘定が違うよ」、「これは食べていない」などの中国語の勉強を急いでする。

 待つことしばし、やはりデザートも容易には登場してこなかった。もう諦めて秘蔵のガイドブックを指差し会計を頼むと、デザート代金が付いているではないか。早速「これは食べていない」が役に立ち、美女に訂正を要求するが、「これは食べていない、しかし食べたい」と判断したのか、デザートはすぐに運ばれてきた。それはサイの目に切った西瓜とタピオカが両方入ったココナッツジュースであった。かくなる晩餐会は3時間、当レストランお勧めメニューの「ジュー・ジュー牛肉」は一体どうなったのか。−わからない。

 北京滞在四日目、ICA主催のローカルツアーの当日は、十三廊と万里の長城(八達嶺)が目的地である。朝6時半には目覚め、窓の外を眺めると夜中に雨が降ったらしく、ホテル前には大きな水溜まりが至る所に出来ている。すでに北京市内へ向かう出勤ラッシュが始まった様子で、道一杯が自転車の集団で埋め尽くされている。その中に割込むようにバスや乗用車が警笛を目一杯鳴らしながらも、お互いに折り合いが着いている様子で結構旨く流れている。そのうち雨が降り出し、自転車の集団のほとんどは色とりどりなビニール製の雨合羽に装いを変え、日本のように傘をさして自転車に乗っている人は殆ど見られない。もっとも、雨が降出すと結構雨足は激しく自転車の場合とても傘では役に立たず、雨合羽の携帯が納得できた。

 ホテルを出発した時は大雨であったが、走り出すと直ぐに雨は上がり青空が見えてきた北京市内を、何故かパトカーに先導された8台の貸切りバスは十三廊・万里の長城に向った。市内の大きい交差点には警察官(?)が配備されており、信号に関係なくノンストップで通過し、前方の交差点が赤信号で渋滞していると、先頭のパトカーが「ピョン・ピョンー」と警笛を鳴らし、センターラインを越え対向車線を8台のバスが走行するという乱暴な先導であった。日本ではまず体験できないバス旅行を経験した。

 中国では交通の発達している場所を"四通八達の地"と呼び、その八達の2文字をとり"八達嶺"と呼ばれるようになったそうで、その昔は東西南北に通じる交通の要所であったという。その八達嶺が近くなるに従い山が険しく迫り、その山々の稜線上に長城が見え隠れし始め、とんでもない斜面にも長城が築かれているのを見る。渋滞も信号待ちも関係なく定刻に到着。

 案内書によると、入って右側の長城が女坂、左側が男坂とのこと。我々は比較的人が少ない男坂に向った。途中物売りが結構多く、観光客は通過するのに一苦労する。途中から坂は厳しくなり、階段が設けられているがこれが磨り減っており、手摺を頼りにようやく登り着いた。

 やっとの思いで八達嶺の長城に立つ。目の前に延々と広がる光景に激しく驚かされる。とにかくスゴイ!。こんな天然の要害の地に、誰が・何故・どうやって…。−わからない。

長城は高さ約9m、幅は上部で約4.5m、底部で約9mで、
数100mごとに兵士が詰めるだん台が設けられている。

 最終日の前日、午後から北京駅と天安門広場、門前大街を観光した。北京駅は3階まで吹き抜けの駅舎で、昼間でも薄暗い構内は目が慣れるまで時間が必要である。まず目に飛び込むのは、正面の両サイドにある長いエスカレーターで、外観と合わせ超近代的な駅を思わせるが、回りに目を移すと、人の溢れていた駅前にも増して、駅構内はさらに人がひしめきあい、荷物の横にしゃがみ込む人、荷物を枕にゴロゴロ横になっている人で本当に足の踏み場もない。

 長いエスカレーター(2本とも上り専用)に乗り2階に上るとそこは、北京から旅立つ人や観光旅行から帰る人の為の土産物屋がズラリと軒を並べており、結構見ていて飽きない。下に降りるのは階段しかなく、ここにも人が溢れている。階段の両脇は全て椅子代わりに座っている人に占拠され、中央部がかろうじてその役目を果している。階段を人が占拠している光景は、王府井大街にある北京市百貨大楼でも見たが、屋外である故宮の天安門や大和門をくぐった北側の日陰にも、必ずびっくりする程の沢山の人々が座り込んでいた。−旅の終りに、最早、わからなくはない。

 とはいえ、帰国の途に着いてからも、八達嶺の長城で覚えた感動は、なんとも掴み切れず、それではと、その正体を整理すべく、図書館に出掛けてみる事にする。

 ざっと調べたところに依ると、万里の長城は、春秋時代(前722〜481)、戦国時代(前476〜207)に北方遊牧民族(匈奴、蒙古族)の侵略に備え、都市国家単位で構築していった長城を、中国の統一(前221)を果した奏の始皇帝が30万の軍兵と農民数百万を徴発し大量の日干煉瓦を造らせ、長城をつなぎ、さらに延長して、現在の長城の原型を造ったという。しかし、その後の歴代王朝もたびたび補強、増築を繰り返し、今日に残る長城が完成したのは16世紀末であるという。その長さは、東は渤海湾岸の山海関から西は甘粛省の嘉峪関まで、地図上の総延長で2700km、斜面に構築されていることや一部には二重、三重に構築されていることを計算にいれると5000kmを越えるともいわれている。

 我々が眺める事のできた八達嶺付近の長城は秦の始皇帝時代のものではなく、明代(1368〜1661年)に築かれたもので、長城は磚(せん)という薄ねずみ色の日干煉瓦を焼成したものを積上げて構築されている。始皇帝時代の長城は八達嶺の北方百数十キロに位置しているようである。

 以下、長城が積極的に構築されていた時代の中国の歴史を簡単に整理し、ミニ年表を作成してみた。

722 春秋時代
551 孔子誕生 500 縄文時代晩期
403 戦国時代
221 素始皇帝中国統一
202 漢(前漢)王朝成立(〜後8)
154 呉楚七国の乱
141 武帝即位(在位〜87)
2 仏教、中国に伝わる
8 王莽即位、新を建国(〜23)
25 光武帝後漢王朝成立(〜220) 57 倭奴国が光武帝に朝貢
184 黄巾賊蜂起
208 赤壁の戦・三国時代
220 魏の建国(〜265)
221 劉備蜀漢国皇帝となる 238 邪馬台国女王卑弥呼が
265 晋の建国(〜316) 魏に朝貢
316 五胡十六国時代

 中国に比べ、同時代の日本には縄文時代、倭奴国、耶馬台国の記述しかまだ見当たらない。何とも寂しい空白ではある。この時代から16世紀までの長い間、万里の長城を築き維持して来た事を計り知ることはとても容易ではないことを実感する。ましてや私の心をかすめる、"謎"を腑に落とすことなど、できそうにもない。

 慣れない図書館の禁煙から解放され、くわえタバコも心地好く、自転車で帰路につく。借りた図書館の利用券を返さねばと、小学校四年生の我が息子の部屋を尋ねると、日本では高値が付くからという注文に応じ、北京でしつらえた土産のファミコンのカセットにも飽きて、新しいカセットで仲間と遊んでいた。さして、気に病むこともない。

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