1994/1
No.43
1. 一寸の光陰 2. 欧州国際会議に参加して 3. マルチチャンネル型リアルタイムアナライザ SA-28型の構成と応用
 
 一寸の光陰

騒音振動第四研究室 室長 山 本 貢 平

 一年に一度、年末から年始の頃になると、遠い時間の闇に消えていた記憶がふと蘇ってくることがある。年のせいだろうか?
 一月の声を聞いて、なぜか受験の頃を思い出した。そういえば我が家にも、今春の受験生が一人いる。一年前、「受験生になれば夜食を作ってもらって、それを食べるのが楽しみだ」などといっていたのだが、いまはそれどころか受験の苦しみを味わっている。最近の受験生は我々の時代に比べると、ずいぶん大変のようだ。

夜の国立駅で
 夜の11時頃、国立駅のホームの階段を駆け降りて行く小学生を見かけることがある。よく見れば、重そうなリュックサックを背負い、数人の友達となにやら喋りながら足速に歩いて行く。改札口では中年の女性が子供達を出迎え、一緒に暗い夜道の中に消えていった。どうやらこの子供たちは塾通いの受験生らしい。そしてあの光景は塾から夜遅く戻ってくる子供たちとそれを迎える母親たちの姿だった。近頃は中学生や高校生だけでなく、小学生までが受験競争に巻き込まれているのか!
 そんなことで驚いているなんて、あんたは世間知らずだと笑われるかもしれない。では自分が子供の頃はどうだったのか?
 僅かな記憶を手繰ってみることにした。

生徒数3000人を越える小、中学校
 小学校に通ったのは今から、かれこれ30年以上も前のこと。その小学校は大阪市の南の上町台地と呼ばれる小高い丘陵地にあった。この付近は、古くから寺院が多く建ち並んでいたので寺町と呼ばれている。聖徳太子にゆかりの深い四天王寺もその一角にある。私の小学校は四天王寺の南側で、河部野という地名の住宅街にあった。晴れた日には校舎の屋上から、通天閣と大阪の町、さらに神戸から六甲の山なみまでが見えた。
 我々は団塊の世代と呼ばれ、人数はとにかく多かった。私の学年は、一学級が50人前後で一学年で12クラスがあった。そして一年生から六年生の全学年で、なんと約3000人にも達したのである。我が家の受験生が通った小学校は一学年の児童数がたった50人前後、全学年でも300人に満たない程度であった。それと比べると雲泥の差である。あの頃、人数が多い割には受験競争などという言葉はなく、まして今で言う中学受験などというものはなかった。ただ、いわゆる「ええしのぼん」が行く私立中学校には入学試験があったかも知れない。ともあれ、私とは無縁であった。
 小学校を卒業するとすぐ隣の市立中学にぞろぞろと入学する。通学範囲は小学校よりも広いため、一学年の生徒数は以前よりもいっそう増えた。この中学でも一学級は50人前後で、我らの学年だけでもなんと24クラスもあった。むろん一年生から三年生まであわせると3000人以上に達していた。2学年上は30クラスもあると聞いていたので、いかに人口密度の高い中学か想像できるであろう。そういえばマンモス中学と呼ばれていた。

ゴミを拾え
 このように生徒が多いといろいろと考えられないことが起きる。教官は100人程いたので、教師なのか用務員のおじさんなのか分からない。特に御年配の方で、地味な格好をされた教師は始末が悪い。わざと麦わら帽子をかぶり、尻ポケットから手拭いをぶら下げて歩いては、こっそりと生徒に近付いて用務員と間違わせて喜ぶ大人物もいた。生徒の方はできるだけ先生の特徴をよく表すようなアダナを付けて、間違わないようにするのだが、100人もいるとなかなか難しい。
 この中学では運動会、遠足、修学旅行などの行事は大変だった。例えばバスに乗って課外活動に出掛ける時、25〜30台のバスが学校にやってくる。バスを留める場所がないので、校舎の周囲だけでなく周辺の住宅街の路地にまでバスが溢れ出していた。生徒も先生も自分たちの乗るバスが見つからず、「‥号車のバス、知りませんか?」と近所の人に聞いて回るありさまであった。
 反面、人数が多いことで便利なこともある。朝礼は全学年3000人が集合するので、小さなグラウンドはすし詰め状態だった。年末終業式の朝礼ともなれば、教官が生徒にむかって、「前後左右手を延ばして触れない程度に広がれ」という。ワイワイガヤガヤと広がると、今度は「自分の足回りに落ちているごみを3〜4個捨え」という。それぞれ周囲のごみをシブシブ捨うのだが、これでグランドはいっぺんに奇麗になった。そのはずだ。1万個以上のごみが数秒の内に回収されてしまうからだ。「先生はうまいこと考えよるなあ!」と感心したものだ。

受験の季節
 話しがそれたが、3年生になるといよいよ受験の準備に入る。準備に入るといっても、最初は勉強するふりをするのだ。偉そうに「引退する」と宣言してクラブ活動をやめるのだが、本心ではもっと先輩風を吹かせて後輩いじめをしたい。しかし、いくら成績が悪くても「受験準備で忙しい」などと見栄をはって、クラブ活動から離れないとカッコウが悪いのだ。
 我々の高校受験期は、何時も教室でガヤガヤ勉強させられていたという記憶がある。その頃、塾などと言うものは聞いたことがない。まして家庭教師に習っているという話なども知らない。騒がしかったけれど、学校だけが唯一学びの場だった。
 この頃、急に暗記させられることが多くなった。今も時々断片的に意味不明の記憶がよみがえってくる。「カロカツクイイケレマル」、「サイタコスモスサイタサイタ」、「カネカルナマガリアテニスナ」、「シャシャノフアファ、ミヤマモシャヤニシャヤケドモ・・・」などなど。このような暗号の残骸は今ではもう無意味であるが、不思議と思い出せるのだ。それでも当時は「試験にでるから暗記しろ」といわれ、それを暗記したために試験では助かっていたのである。我が家の受験生も親たちと同じ道をたどっているから滑稽だ。
 しかし、あの頃は受験の為の勉強といっても、今ほど激しい競争や悲壮感を伴うものではなかった。参考書も豊富ではなかったので、ワカランところは、生徒同志で調べて、教えあったりもした。人数こそ多かったのであるが何となく競争相手というよりも、共通の志をもった運命共同体仲間という意識があったのだろう。
 受験も大学入試となれば、随分様子が違ってきていた。高等学校での教育課程はかなり専門的で内容も一層深くむずかしいものになる。中学の時のように暗記力だけでなく理解力が要求された。しかし高校教育も詰め込みに近かったため、理解には時間を要した。結局、一年余計に勉強して大学に入ったのだが、この浪人の一年が今までに最も有意義であった。未消化の乾燥した知識であっても、牛の反芻のごとくよく噛み砕いて飲み込めば、味わうこともできそうな気がした。要するに知識の修得は教師の一方的な詰め込みによって達成されるのではなく、独学に負う所が大きいのだということを知ったのだ。いってみれば8割が独学で、残り2割が先達の助けということだろうか。また、この時期に、自分の歩んできた道をじっくりと見つめ、将来を考えるチャンスを得たことは大きい。

親に勘当された受験生
 浪人生活の最初は予備校に通っていた。ほどなく、一方通行の授業には飽きがきて、天王寺図書館の静かな自習室で本を読むようになる。そこには同じような境遇の仲間がいることを知るようになり、情報交換をするようになった。その一人に『七郎クン』と呼ばれている人がいる。少し小太りの陽気な男で、皆を笑わすのが得意であった。笑わせすぎて自習室が騒がしくなり、図書館の職員が彼を捕まえにしばしばやってきたものだ。
 入試の結果がそろそろ発表され始めたある日、彼は紺のスーツに身を固めて、いつもの図書館に現れた。一体どうしたのかと聞くと、これから東京に行くという。受験に失敗して親から勘当され、3万円やるからもう帰ってこなくていいと言い渡されたのだ。何とひどい親がいるものだとその時は思った。しかし、後で聞いたのだが、彼は7年間も浪人をしており(だから『七浪』と呼ばれていた)、浪人に疲れたというよりは大学に行く意欲を既に失っていたのだ。

人を作る学校教育
 話しを戻そう。学校教育の勉強とは結局のところ、意識するしないに拘らず受験のための勉強だったのだ。そして、今の子供達も結局のところ同じ目的で勉強をしている。アメリカ人からこんなことを言われたことがある。「日本の教育はメモライズが中心で、物事を独創的な方法で考えるとか問題を自力で解決することを教えない。日本の学校は、同じ考え方を持つ人間を作る工場のようなものだ」と。そう言えばそうかも知れない。しかし、アメリカ人も、"ツウゲッタグットジョブ"のための手段として、より高い教育を受けようとするじゃないかと言いたかったが、言えなくて残念であった。高い教育を受けることがよりよい職業を得るための手段であることは、日本もアメリカも同じだ。
 教育という語を広辞苑で引いてみた。「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動。」
 この説明はまさに我々が小学校から16年間にわたって受けてきた教育の考え方そのものではないか。しかし、この説明に一抹の不安を覚えるのは私だけだろうか?要するにこれは教える側の思惟的な論理で説明されている。つまり、「教える」と「育てる」という他動詞で説明されており、更に言えば、その中に教育の結果として得られる価値判断までが一方的に伝えられている。一つ間違えば、教育は社会的ひずみや問題を作り出す元になり得る。しかし、この解釈こそアメリカ人が我々に投げかけた疑問だったのだ。

育つことを忘れた若者たち
 今、教育とは「教える」ことであっても、基本的には「育てる」ことではないと考えている。むしろ「育」は「育つ」という自動詞であるべきだと考える。つまり、「仁和寺にある法師」(徒然草)を導くのは「指導者」ではなく、育とうとする人を助ける「導者」であるべきなのである。教育は人の新たな能力を引き出し、また人格形成の助けをするという行為でありながら、その行為が人の能力や人格形成を逆に決定づけてしまうという、相反する二面を持っている。それだけに素人が軽々しく教育について言及したり、教育行為を実施してはいけないのかも知れない。
 受験戦争のなかで教育を受けてきた若者たちは、自分がそうであったように、「教えられる」ことを待ち望んで「自ら育とう」とする意欲に欠ける傾向がある。学校教育という工場の中を通ってきた人間の一つの欠陥であるのに違いない。今、社会人となって「自ら育つ」という意味の教育に目を向け、自分が主体となって自分に還元する教育に価値を見いだす必要があろう。
 最近話題になった新明解国語辞典第四版で教育を再度引いてみた。「一般的な知識や技能の修得、社会人としての人間形成などを目的として行われる訓練(狭義では学校教育を指す)。」広辞苑に比べると教える側から教えられる側に視点が移行しており、よりプラグマティズムな印象を与えている。

一寸の光陰こそ
 理工系出身者が独創的な研究を出来るのは30才台迄と言われている。その年代をとっくに過ぎてしまった。それにも拘らず、自らへの還元としての教育は数限りなく存在している。人が一生のなかで学び得るのはほんの僅かである。年月ばかりが矢のごとく過ぎて行くが、うっかりすると記憶の一部が脱落し始めてきた。記憶が全て脱落したときに、なにが自分に残るかは興味深いところである。されど今は、「少年は老い易く、学業はなかなか成り難い。一寸の光陰こそ軽んずべからず。」か。

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