1994/1
No.43
1. 一寸の光陰 2. 欧州国際会議に参加して 3. マルチチャンネル型リアルタイムアナライザ SA-28型の構成と応用
       <会議報告>
 欧州国際会議に参加して

物理研究室 田 矢 晃 一

 インターノイズ93は平成5年8月24日より26日までの3日間、ベルギーの大学街ルーベンで開催された。我々小林理研からは山下所長、山本騒音振動第二研究室長、同室の大島研究員と筆者の4名が参加した。今回は会議直後にフランスでインテンシティ国際会議も予定されており、大島と筆者は初のヨーロッパ訪問でもあったことからこの会議にも出席することを許され、8月22日から9月4日までの延べ14日間という長期出張となった。
 多くのことを体験でき、私にとって非常に有意義な旅行であったが記憶は消え行くばかりである。点在する記憶を頼りに旅行記を書き綴ってみた。

1.インターノイズ93
 AF275便がゆっくりとシャルルドゴール空港に降り立った。トランジットのための束の間の着陸であったが、これが私にとってヨーロッパを歩く初体験である。興奮気味に、待ち構えていたバスに乗り込み、乗継ぎロビーへと向かった。シャルルドゴール空港は大きくて分かりづらいと聞いていたが、ゲートナンバーを頼りに直線的に進むしかない私にとって、その大きさなど皆目見当もつかなかった。

シャルルドゴール空港にて

 少憩をとり、数10分のフライトで、目的地であるベルギーへ無事到着した。しかし、ブリュッセル空港から乗り込んだタクシーの、ロイスレインに似た風貌の女性ドライバーは我々の宿泊するホテルを知らず、これからの道中を暗示するかのように、真円に近い外周道路で囲まれたルーベンの街中を走り回り、図らずも初日から市内観光を楽しむ羽目になった。私はこのドライバーと滞在3日目にホテル前で出会ったが、ここはもうよく知っているよと自慢げに話していた。あの時、本当に彼女はホテルを知らなかったのだろうかと疑問が残った。
 国際会議であるインターノイズは、私の知る限り、会場はホテル内に設けられ、そのホテルに泊まることができるため、足の便は心配しなくてもよいのが通例になっていると思っていたが、今回はカソリック大学が会場であり、ホテルとは異なる場所に設定されていた。
 大学といってもキャンパスはなく、市内に校舎が点在しているといった様子で、それぞれにフラマン語で名前が付いているため、会場を探すのに苦労された方も多かったようだ。
 開催前日の朝、受付に行くと、音響工学研究所の子安先生が早々と到着されていて、手にしていたプログラムを手早く引き我々の発表日を教えてくれた。幸いなことに全員初日の発表であった。
 この日、山下所長はI/ INCEの委員会で朝から夕刻まで会議室に缶詰になっていた。時折休憩で我々と会った際には『Japan bashingにあったよ』と言いながら疲れ切った体をコーヒーで潤わしていた。私も急に自分の発表が心配になった。その晩は山本室長に頼み、オーラルペーパーもどきを少しはましな英語に手直ししてもらった。
 翌日、オープニングセレモニーがAula Pieter De Somerというオーディトリアムで開催された。組織委員長のA.Cops教授の挨拶に始まり、カソリック大学のW.Geysen教授、I/INCE会長のW.Lang氏の挨拶が続いた。セレモニーの合間には、弦楽四重奏による演奏で、会場を和ませていた。またテクニカルセッションが行われた10の会場は、著名な作曲家の名前が会場名になっていた。
 今回の参加者数は、37ヶ国、635名、発表件数は396件で、例年よりも規模が大きいとのことである。中でも日本からの発表件数が54件と最も多く、次いでフランスの41件、ベルギーの35件という順であった。
 今回のメインテーマは、"PEOPLE VERSUS NOlSE"である。人間は利便性を追及した結果、その副産物として騒音を生み出した。その騒音をいかに克服するかがテーマであり、カソリック大学学長のRathe氏が同名のタイトルで講演を行ったほか、各国からこれに因んだ発表が行なわれた。小林理研からは、山本室長が道路交通騒音に対する遮音壁に関する2件の発表をMOZARTで、大島研究員はヘリコプター騒音の評価に関する発表をROSSINIで、私は自動車車室内の騒音源の一つである燃料ポンプに関する発表をCHOPINで行った。
 山本室長の発表では中盤までは聴衆の反応は今一つであったが、実験用音源に用いたマフラーに穴の開いたくたびれたバイクの写真を見せたり、植栽付きの新型遮音壁に水を蒔くH氏の写真に『メンテナンスに問題あり』の解説が付くと、会場内は大受けとなり、そこから先は聴衆を話に釘付けにしてしまった。プレゼンテーションでは堅い図式のみよりも、分かりやすいユーモアのある絵が必要だと感心させられた。これから発表を予定している諸兄には是非参考にされたい方法である。
 大島研究員も流暢に発表を行い、発表後には女性に詰め寄られ質問攻めにあっていた。私の発表のときも3件の質問があり、貴重な助言を頂いたり、具体的な対策への要求があった。同様の研究をしておられる方がいることがわかり心強く思う反面、より具体的な研究活動が必要であると反省させられた。
 学会恒例のメーカの展示会も今回は二つの会場で行なわれた。最近は音響機器も単体ではなく、それらを活用するためのソフトの開発が盛んで、どのブースにもWSやパソコンが並んでいた。特にウィンドウズを用いたソフトが多く見受けられた。ウィンドウズは私も愛用しているが、展示会のソフトは全く次元の異なる物で、ここまで出来るのかと改めて敬服してしまった。また、欧米で多く用いられているマッキントッシュが、展示会場ではほとんど見られなかったことは意外であった。
 クロージングセレモニーでは次期開催地横浜の紹介ビデオが放映された。それは日本人が見ても『横浜に行って見たい。』と思わせる程、素晴らしい映像であった。そして圧巻だったのが来年度組織委員長の子安先生の招致演説である。紹介ビデオのナレーションとは対照的なジャパニーズイングリッシュを堂々と操り、20分近くに渡って日本の名所や開催地横浜を面白おかしく紹介し、エンディングには着ているスーツをさっと脱ぎ捨て、インターノイズ94特製ポロシャツ姿に早変り、ファッションモデル宜しく壇上で一回転のパフォーマンスをやってのけた。大喝采を浴びたことは言うまでもない。
 インターノイズ93はこうして暮を閉じた。それにしても日本から8000kmも離れたヨーロッパ圏における会議でさえ、発表者数は日本が断然の一位であった。これも経済大国日本の成せる業なのか。会場が日本に来た時、真の国際会議としての成功を収めるためにも、実行委員会の奮闘を期待するばかりである。

2.ブルージュの休日
 インターノイズが終了し、翌27日朝、我々(大島と筆者)は、帰国組をホテル前で見送り、いよいよ他国の空で二人きりになってしまった不安と、発表を終えた安堵感と、これから体験するであろう未知の世界への奮闘とがごちゃ混ぜになりながら、ほとんど計画性のないスケジュールを片手に、ルーベン駅へと足を運ばせた。
 フランスでの学会までにはまだ4日間の余裕があった。我々は旅行会社の勧めるままにブルージュという町で休日を過ごすことにした。ブルージュはルーベンから電車で1時間余りの距離で、貿易港でならしたオステンドに程近い観光名所である。
 ブルージュの道路は、幹線道路こそアスファルトになっていたが、ほとんどの街路は石畳でできていた。上から見ると一片10cm程の石をアーチ状に連ねてある。表面があまり平らになっていないため重いスーツケースを引く我々にとっては酷な道であった。
 往来には馬車が多く見受けられた。信号待ちの時には、自動車と馬車が縦列になって止まるという何とも異様な光景であった。しかし、今でこそ馬車は全て観光用になっているがかつては馬車が主要な交通機関であったに違いない。馬車にとっての石畳は土埃も起こさず、頑健な道路なのである。そして何よりもその音が素晴らしかった。カポッカポッと蹄の音が近付き、通り過ぎると小気味良いリズムで徐々に音が小さくなる。思わず目を閉じてその余韻に浸ってしまう。日本にはない風情であろう。そう言えば石畳路のことをベルジアン路と言うそうであるが、ここが発祥の地なのかもしれない。

ブルージュの街並み

 ブルージュの街中には運河が縦横に走っている。これもかつては流通機関であったが、今では観光船専用になっている。我々も早速観光船に乗込んだ。観光船と言っても乗組員一人の屋根のないモーターボートだ。両舷と中央に椅子があり、ぎっしりと約40名を乗せる。定員に達しないうちは出航しない。我々が乗込むとき、船長に英語が分かるかと聞かれた。YES!と答えると船長はうむと頷いた。出航してから分かったことだが、船長は観光案内役も兼ねており、乗客によって言葉を変えるのだ。我々の船長は英語、ドイツ語、フランス語およびフラマン語の4ヶ国語で船外に広がる景色を案内しながら、思わず頭を屈めたくなるような低い石橋が連なる水路を、タクシーが路地を通り抜けるように舵を取っていった。船を降りるときには神々しくさえ見える船長が差し出す手と堅い握手を交わし、感謝の言葉をくちずさんだ。なぜか。船を降りる際、ほとんどの乗客はチップを船長に渡し、船長はこれを受け取るために乗客に手を差し延べていたのだった。
 ブルージュは、ボビンレースでも有名な処である。市内にレースセンターがあり見事なレースの作品が展示されている他、レース専門の土産店が軒を連ねている。石畳の裏通りを散策していると、初老のご婦人が道端で陽に当りながらボビンレースを楽しんでいた。数十のボビンを眼にも止まらぬ早業で投げ上げレースが織られていく。しかしレースとして見える部分はまだ掌の大きさにもなっていない。細い"線"から"面"を造り出すには途方もない歳月を要する。生活に密着していなければできる業ではない。土産のレースの値段が高いのにも納得させられてしまう、などと勝手な想像をしながら暫く見入っていたが、ふとその手許から目を離すと、いつの間にか周りは黒山の人だかりになっていた。ご婦人に悪いことをしたと思いつつ早々に退散した。
 ブルージュを発つとき、なぜベルギーならブルージュなのかと考えてみた。確かに街には美しい公園が多く、カリヨンなど見るべきものもある。しかし何よりもブルージュは、ベルギーのベルギーらしさを最も良く保存している街なのではないだろうか。

3.インテンシティ国際会議
 我々は、次の目的であるインテンシティ会議参加のため、フランスに移動した。会議の正式名称は、4th International congress on intensity techniquesで、副題がStructural Intensity and Vibrational Energy Flowとなっている。開催地は、パリの北50km程に位置するSENLISという町のCETIM(Center Technique des Mechaniques)で、8月31日〜9月2日の3日間の日程で開催された。参加人数および発表件数は表に示す通りで、インターノイズの1/5程度である。日本からは、東大の大野先生はじめ7名が参加した。会場は、発表会場1室、展示会場1室、食事室1室、および休憩ロビーが用いられた。つまり、全ての発表を1室で行うため、参加者は全ての発表を聞くことができる。発表形式は、1講演が15分で、質問時間はなく1セッションが終了するまで発表が続けられる。1セッションが終了すると、そのセッションの講演者全員が演壇に立ち、パネルディスカッション風の質問時間が30分間設けられる。座長が困るということはなく、次々に質問が飛び出し、ワイヤレスマイクを持った会場係りが忙しく動き回っていた。使用言語は英語となっていたが、フランス語も可とされており、座席に取り付けられたヘッドセットからは、英語の発表のときにはフランス語、フランス語の発表のときには英語の同時通訳が流れていた。
 この会議は、第2回までは音響インテンシティも含まれていたが、前回よりStructural Intensityに内容が限定され、各セッションには、理論、概念、測定原理、方法、計算、予測、解析、応用等の名が付けられており、予稿集全体で一つの論文になるような構成になっていた。各発表者は、主にカラースライドを用いており、歪みのない大変見やすい図が用意されていた。中にはビデオ映像を用いて鮮明な画像を提供した人もいた。

表 インテンシティ会議国別参加人数および発表件数

 休憩時間には、また全員がロビーに集まり、コーヒーのサービスを受けながら歓談する。昼食も食事室に全員が着席し、たっぷりのワインとコース料理を、1時間半をかけて楽しむ。この会議は、とてもファミリアな、そして質の高い会議であった。また、87年のインターノイズ出席の際お会いしたペンシルベニア大学のDr.Hayekにまたお会いすることができ、そのことを覚えていてくれた(?)ことも大変印象的であった。
 パリの最終日、我々は飛島建設(株)の塩田氏に助言を受け、パリが一望できるというモンマルトルの丘(サクレクール)に行くことにした。しかし、地図を持たず、概ねの位置しか聞いていない我々は、適当に地下鉄を降り、後は徒歩で探すしかなかった。一望できるという事から、より高い方に向かって歩げば見つかると思ったがなかなか坂道は見当らなかった。仕方なく、我々は辺り構わず人に聞くことにした。フランス人は、皆よく応答してくれたが、出てくる言葉はフランス語ばかりで皆目理解できない。よくフランス人は英語が分かっても無視するとか知らない振りをするという事を聞くが、彼等を見ていて、決してそうではないと思った。彼等はこちらの言う事を理解しようと努力するし、身振り、手振りを交えて一生懸命に伝えようとしていた。言葉の障壁を少し低くしてから、また来て見たいと思った。
 地下鉄の駅で4つ分ほど歩いたところで漸くモンマルトルを発見した。辿り着いたサンクレールの頂上から見たパリは、凱旋門も、エッフェル塔も、ルーブルも、セーヌ川も、デファンスも、またフランス人の心までが見通せるかのようにまさに絶景であった。しばし呆然と、眼前に広がる360°のパノラマを脳裏に収め、モンマルトルを後にした。
 ホテル前からリムジンバスで三度シャルルドゴール空港へ向かう。しかし高速道路に入ったところでバスは夕刻の大渋滞に巻き込まれ、遅々として進まなくなってしまった。乗り込んだ時点では空港であれこれ土産を買う事など考えていたが、時が経つにつれて飛行機に乗り遅れる心配が出てきた。乗客のほとんどが心配そうに前方の駐車場と化した道路を見守る中で、一際焦っている人物がいた。スチュワーデスだ。今にもバスから降り、走り出しそうになっている。きっと我々よりも早い便のクルーなのだろう。私もよく遅刻をするが、飛行機に乗り遅れたクルーは一体どうなるのだろうか。
 バスはなんとか出発時刻の30分前に空港に到着した。手短かに買い物を済ませ出発ロビーヘ急いだ。しかし、今度は搭乗予定のAF272便が定刻を過ぎてもなかなか搭乗手続きを開始しない。結局、定刻から1時間30分遅れのテイクオフとなった。
 機内で一息つき、辺りを見回すと、先刻のスチュワーデスがしっかり仕事をしていた。彼女は我々と同じ便のスチュワーデスだったのだ。彼女の話によると、この日、クルーの大半がクルー会議に遅れ、そのせいでフライトスケジュールも遅れてしまったのだそうだ。
 空の色は急激にその深みを増している。短い夜に乗り遅れぬよう、長いようで短かった旅行の奮闘と思い出を胸に、私も夢の中へのフライトを開始した。

パリ市街の展望

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