1994/7
No.45
1. 地図にない町 2. 骨董品展示室の喇叭(ラッパ)たち 3. Gシリーズ(プログラマブル)  オーダーメイド補聴器 マイエイド HI-21
 
 地図にない町

物理研究室 室長 金 沢 純 一

 正月明けから約1カ月間、真冬のロシアに出張する機会を得た。出張先はサンクト・ペテルブルグ近郊の原子力発電所のある町で、日露政府間協定による原子力発電所の安全に関する調査が目的であった。ロシア語で松の林を意味する名前を持つこの町は、八万五千人もの人口を有しながら、その存在は旧ソ連時代には公表されておらず、ソ連国内の至る所にあった他の類似の町同様に地図に出ていない町の一つであった。ここに通じる道路は、町の人口の20キロメートル以上も手前に遮断機が設置されており、ここからは外国人の立ち入りが阻止されていたとのことである。ソ連軍によって1960年代に住民のまばらな寒村だったところに建設されたこの町は、原子力発電所のほか、核融合や光学関係の重要軍事研究を行う研究施設が併設されていた。つい数年前までは、これらの施設の職員はもちろん、一般の住民も外国人との接触は禁止されており、国際的には、町も住民も存在しないことになっていた。現実には、人工衛星を使えば容易に施設の内容や規模を知ることができるので、西側の少なくとも軍事関係者は、はじめから町の存在は知っており、地図にない町をつくることの不自然さは逆に重要機関の存在を知らせる皮肉な結果になっていた。グラスノスチ政策によって、この町に外国人の立ち入りができるようになったのは4年前であり、それ以後はドイツ人、アメリカ人など多くの西側の外国人がこの町に入り、ビジネスなどを通じてロシア復興の協力を行っている。政府機関・企業関係者に関しては、日本人の長期滞在は今回が初めてであるが、個人レベルでは、外国人の立ち入りが認められるようになって間もなく、一人の日本人ギター奏者がいきなり町に飛び込んできて、まだ外国人に接することの少なかったこの町の人々を驚かせたとのことである。この人は現在でもここに滞在し、ギター教室を開いて文化の普及に尽くしている。今回の滞在期間中、国際的にもあまり例のない、原子力発電所内の安全に関するデータ収集に立ち会えたほか、実際にこのような町の人たちに接触することによって、地図にない町の人たちがどんな生活をしてきたかを教えられ、貴重な体験をすることができた。

 サンクト・ペテルブルグは、ピョ一トルー世が凍らない港の獲得をめざしてスウェーデンと戦争を始め、1703年に当時スウェーデン領だったネヴァ川河口を制圧してから建設を始めた比較的新しい町で、20年余りにわたる戦争の後、1721年に正式にロシア領となっている。発電所のある地域一帯は、このとき同時にロシア領となっており、1941年から1944年にかけてのドイツ軍によるレニングラード封鎖の際にも、地勢のよさや極端な低温が味方したこともあって、一貫してロシア人が支配してきている。多くの犠牲を払いながらも、ナチスからレニングラードを守るのに役立ち、バルチック艦隊基地のクロンシュタットヘの通路にもあたったこの地区が、軍事上の重要地点とされたのも納得できるような気がする。最近は、ナチス侵攻時のような低温にさらされることはあまりなくなっているとのことであるが、それでも風向きが急変して、摂氏2度の気温が一晩で零下20度位にまで変わるのは珍しくなく、溶けていた氷が一気に凍り、交通機関が乱れて容易に1時間や2時間のスケジュール変更が発生する。このような変化は、この時期では1週間から10日毎に繰り返されるが、現地の人たちにとって、気象変化による予定変更は珍しくないとみえ、いとも簡単にこの変化に対応しているのには驚かされる。日本では、会社の1年間のスケジュールは、前の年からほとんど決まっているのが普通であるが、この町ではかなり前からわかっていると思われることまで、直前まで決定しないことが多いようである。帯在中にあった例として、1月26日と27日は、サンクト・ペテルブルグ一帯が900日にわたるドイツ軍封鎖から解放された記念日に当たるが、休日決定が行われたのは1週間前であり、その代わりの出勤日として翌々日曜日が出勤日に変更されたのは、その2日前の金曜日のことである。

 ロシア国内では、現在ほとんど日替わりで法令が変わり、急速に通貨価値が低下している。銀行の支払延期に端を発するとみられる数カ月間の給料未払い状態が国内の各所で発生しているが、暴動が発生する様子もなく、ロシア国民の辛抱強さには改めて驚かされる。この地区でもこの状況は変わらず、関係者によると、「そんなことが可能なのはロシアだから。」、とのことである。

 クーデターをきっかけとしたソ連政府の崩壊は、ロシア国民を一気に自由化に導き、今回の滞在期間中も空港内の写真撮影など、軍に関係するものを除いて、あまり制約を受けることはなかった。ニュースなどを通じて、多くの制約が撤廃されたことはある程度知っていたものの、少なくとも数年前までは鉄道の写真を写すことさえも禁止されていた国であり、はじめのうちはどこにつれていかれるのか不安で、ことによっては建物内に収容されたままになる可能性も考えられた。

 帝政時代のロシア皇室は、クーデターの連続であり、皇帝及びその側近が一夜にして幽閉されたり殺害されることが珍しくなかった。イヴァン四世とピョートル一世は直接自分の跡取りを殺害しており、エカテリーナ二世、アレクサンドル一世は、直接手は下さなかったものの、それぞれ夫のピョートル三世、父親のパーヴェル一世殺害のきっかけを作っている。また、帝政時代のロシアには、偽物の発生が珍しくなく、至る所で死亡したはずの英雄や皇帝が復活している。ステパンラージンやブガチョフの偽物はその例であり、殺害されたはずのディミトリーの出現では、母親の本人確認の証言もあって一時は即位までしており、現在でも彼が本物だったかどうかは謎のままである。ニコライ二世一家についても、一家殺害は形式だけで、実は生き長らえていたとの噂がつい最近までロシア国内で囁かれており、最近の発掘調査と遺伝子鑑定によってようやく殺害の事実が確認された。フルシチョフ首相の失脚、死亡したはずの何人もの文化人が生きているとの噂の発生などの例は、ソ運時代に入ってからもクーデターの発生と謎めいた事件の発生の傾向は止んでいなかったことを示す。しかし、一方のロシアの主役である一般国民の側では、実は真相などはどうでも良かったようである。例えば、ロマノフ王朝の少なくともアレクセイ皇帝とピョートル三世のところで血筋が絶えているにもかかわらず、一貫して皇帝を受け入れてきたことからもわかるように、皇帝がロシア民族の誇りを保ち、自分たちの生活に支障がなければ、真相はどうでも良かったのかも知れない。このような例は、今回の地図にない町の人たちにも言えるようで、実のところ、ソ運政府から革命家の歴史の教育をされては見たものの、大半の人たちは逆らうわけではないかわりに、積極的に協力するわけでもなく、歌い、踊り、ジョークを語り、別荘に熱中しながら、楽しくしたたかに次の時代の来るのを待ち続けたといえそうである。ロシアの人たちが口ずさむのは、まず「行商人」、そして「カリンカ」、「トロイカ」などの昔からの歌であり、「モスクワ郊外のタべ」、「ステンカラージン」、「カチューシャ」なども割合好まれる歌のようである。逆に、モスクワ放送でよく聞かれた、「ポリュシカ・ポーレ」「アムール川の浪」などはほとんど聞かれなかった。

 かつて町の完成とともに、政府の命令ひとつでここへ移動させられてきた町の人たちは、はるばる極東の地からきた日本人に、ロシア民謡を演奏し、歌い、ロシアンダンスを踊ってみせてくれた。彼らは、「ソ運政府の好きな人なんて、もともとほとんどいませんよ。と笑って済ませながらも、同時にとてつもなくロシアを愛しており、自由主義になったからといって格別感激するわけでもなく、一面非常にクールでしたたかな人たちのように見うけられた。

 ところで、幽閉された元皇帝やその側近たちは、自分たちがどこにいるかを知り得たのかどうかに関心が持たれる。クーデターが比較的容易に発生したり、英雄の伝説が民衆の中で比較的自由に語り継がれてきた国であるから、幽閉中でも誰かしら情報を伝えるものがあっても不思議ではないが、中には空を眺めながら自分の閉じこめられているおおよその位置を知っていた者もあったかも知れない。緯度を測定するのは比較的容易であるのに反し、経度の測定は、時計が手に入りにくい時代にはかなり難しいがどうしたのだろうか。持て余すほどの時間の合間には、日食、月食などの現象もあったかもしれず、それをその手がかりとしたかも知れない。現代では、誰でも正確な時計を持っており、双眼鏡などで木星の衛星を観測したりすれば、比較的容易に経度を知ることができる。また、GPSナビゲータなども手に入るので、直ちに数十メートル以内の誤差で地球上の自分の位置を知ることもできる。今回の出張では、分度器、双眼鏡、理科年表などのほか、GPS受信機まで用意してあったが、気のいい発電所の人たちに、サンクト・ペテルブルグ市内、ペテルゴフ、オラニエンバウム、ツァールスコエ・セロなどの、ロシアの歴史書にはなじみの場所へ何度となく案内してもらったうえ、書店では、数年前までは国家機密であったはずの詳しい現地地図を購入することができて、容易に自分のいる位置を知ることができた。このため、これらの厄介になる必要は生じなかった。

 普段様々な便利な道具や工作精度の良い材料に囲まれ、比較的簡単にいろんなものが手に入る生活に慣れていると、物が壊れたり具合が悪いときの不便さがなかなか実感として理解しにくい。真冬のモスクワ空港に降りるとまず気がつくのは、まわりがやけに暗いことと、鉄と木でできたものが多いことである。仕上げがでこぼこで隙間だらけのエスカレータやエレベータはうなりを立てて移動するし、街路は暗く、薄明かりの中のたくさんの人影が動く様子は薄気味悪い感じさえする。また、遠くから見ると美しい建物も、近寄ると資材はでこぼこで、角は直角でなく、寸法がまちまちであることが多い。しかも最後に取り付けたと思われる位置は、食い違いを直すため、明らかに叩いて寸法合わせをしたことがわかるものも少なくない。しかし、少し慣れてくると、これらが必ずしも大きな支障にはなっていないことがわかる。暗いのはもともとそれほど治安が悪くはなかったためで、歩行には支障がない程度の明るさはあり、車で走行する際には、街灯の間隔はちょうど目障りでない程度になっている。また、サンクト・ペテルブルグの町は、はじめから街灯が導入されていたこともあって、明かりの並びが美しく、多くの建物のライトアップや水辺の影と全体によく調和しており、間近で見たでこぼこはそれほど問題にはならないようである。もともと高精度の資材は想定していないため、いろんな材料を利用でき、資材の調達の容易でないところでは、この方が都合がよいのかも知れない。使用している材料の寸法誤差は、日本のちょうど10倍程度と見られるが、この程度の誤差を許すならば、かなりの用途で資材を共用できるように思える。滞在中、コンパクトカメラ、FFT分析器、DATテープレコーダなど、最新の電子部品を使用したかなりの電子機器が故障したし、あるプラスチック部品はほんの少しぶつけただけで割れて装置全体が使いものにならなくなり、これらは以後の滞在中に役に立つことはなかった。消費経済が十分発達していないこの国では、ひとつの材料がいろんな用途に使用できる自由度が重要で、現状で西側の最新機器をそのまま導入した場合には、故障の際にうまく修理ができるのかいささか心配になる一面であった。

 サンクト・ペテルブルグの町の中は、決して交通量は少なくないにも拘らず、あまりうるさくない。広告放送もほとんどなく、駅の案内放送もごく短時間なため、町の雑踏だけが目立ってきこえる。このような中で、音を発生してパフォーマンスを行うと、遠くからかなりの効果を発揮するように思えた。現在、ロシアの主要な都市には、世界中から各種の新興宗教団体が訪れ、音を効果的に使って布教活動を行っており、サンクト・ペテルブルグ市内でも何度かこのような光景にぶつかった。いずれはこの町も騒音に包まれた住みにくい町になるのかも知れないが、現状では、物が必ずしも十分でない点を少し我慢すれば、概して住みよい町に思えた。

 キエフにルーシの国ができて1000年余り、厳しい気候と広大な国土に守られて、ナポレオンやナチスなどの侵攻を防ぎ、多くの犠牲を払いながらも国を守り通したロシア人たちの忍耐は、自由化後の今でも変わらない。マフィアの暗躍、新興宗教の侵攻に新たな危機を抱きながらも、ロシア人の多くは、タタールのくびきの時期、帝政期、共産主義時代を通じては実現されなかった自由を満喫しており、今回接触した人たちの多くは、もう元に戻ることはないと語っている。現実には、レーニンをはじめとする革命家たちの名前のついた通りや駅、銅像は至る所に残っているが、「あわてて変えたり壊す必要がないから残っているだけで、そのうち変わるさ。」というのが現地の人たちの話で、せっかちな日本人とは大きな考え方の違いが感じられる。

 何かにつけて歌と踊りを楽しみ、地図にない町といっても、特に変わった生活をしていたわけでもないこの町の人たちと、ここしばらくの間おつきあいすることになりそうである。

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