1992/10
No.38
1. 拡声機騒音(暴騒音!?) 2. 遮音壁構造開発の最近の動向 3. 人工鼓膜の看板 4. インターノイズ’92に参加して
       <骨董品シリーズ その18>
 人工鼓膜の看板

所 長 山 下 充 康

 拙著「音饗額」を刊行するときに編集者と表紙のデザインについてあれこれと考えた末、豪華な額縁に耳を収めた図柄にしようということに落ち着いた。
 しかし、耳だけをデザインに取り入れようという提案を受けて、表紙の担当者は大層苦労をさせられたと聞いた。というのは、人間の耳介というのは図柄として非常に落ち着かない形をしているのだそうである。
 確かに、人間の耳をよくよく観察すると、見方によっては形といい質感といい、薄気味の悪いしろ物である。人間の耳は顔の左右に張り付いていて、奇妙な凹凸があって、兎や犬、猫、狐、狸、牛、馬といった獣たちの耳にくらべると不気味な様子をしている。動かない。美しくない。無愛想である。音感覚という大切な受容器の人り口に位置している割に、粗末な風体である。神様が人間を造り上げる際に耳の部分で手抜きをされたのではないかとさえ考えたくなる。
 結局、「音饗額」の表紙は耳介をネガティブフィルムのまま使用する工夫をすることによって、どうにか違和感のない図柄になった。
 西洋骨董店の前を通りかかった際に奇妙な看板が目に止まった。あちこちペンキの剥げ落ちた木製の看板で、板の中央に白く着色された木彫りの大きな耳介が立体的に取り付けられている。年代は不明だが、いかにも古色蒼然とした雰囲気の看板である。

Dr.Peck's
New and Improved
Artifical Ear Drums
Conversations Heard
Even Whispering
Totally Invisible
Be Deaf No More
Numerous Testemonials
H.P.PECK & Co-858 Broadway
New York
ペック医師の
新改造型 人工鼓膜
囁き声でも会話が可能
全く目立たず
難聴よ、さらば
感謝状多数
(testimonial:感謝状)
H.C.ペック
ブロードウェイ858
ニューヨーク

 おそらくペックと名乗るドクターがブロードウェイの貸事務所で開業し、彼の部屋に近い廊下の壁にでもこの看板が取り付けられていたことであろう。
 ペック先生が患者たちにどんな人工鼓膜を適用していたのか知る由もないが、囁き声でも会話が可能」というのは、いささか誇大広告のような気がする。医者の看板に「感謝状多数」などと書かれていることも、我々日本人の感覚からすると少々うさん臭い。
 中央の木彫りの耳介がまことに下手くそな工作で、文字を読まないとそれが耳介であると認識するのに時間がかかる。事実、骨董店の奥に置かれたこの看板を見掛けたとき、得体の知れない軟体動物のような不気味な物体が注意をひいたが、始めはそれが耳介とは気付かなかったほどである。カウボーイたち相手のショボクレた骨折医がキャンプの巡回診療をする際に幌馬車の荷台にでもくくり付けるようなイメージの看板である。
 そう考えながらこの看板を見ていると、失礼ながらぺック先生が怪しげな開業医であるように思えてくる。
 鼓膜に大きな穿孔があって、これが原因で聞こえが悪くなった場合に限り、耳に人工鼓膜を挿入することによって聴力をある程度回復することができるらしい。人工鼓膜にはゴム膜、卵膜、綿などが使われるようであるが、分泌物があるから数日ごとに交換が必要になる。
 内耳疾忠や聴覚神経疾患による難聴に対しては人工鼓膜は全く効果を期待できない。ペック先生の看板の文面にひかれて、どんな患者たちが診療所を訪ねたのかを考えるといささか不安を覚える。
 この看板ほどではないが、人間の耳の形はどう見ても薄気味悪く思えてならない。

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