1991/7
No.33
1. 岡 小天先生と小林理研 2. ガルトンの超音波笛
[エーデルマンパイプ]
3. コンクリート床版の疲労度試験 4. 超音波リークディテクター UM-61型 超音波音源 SF-61型
        
 岡 小天先生と小林理研
理化学研究所名誉研究員
当所非常勤主任研究員
 
深 田 栄 一
 

 1990年7月27日に、国分寺の新しい駅ビルのホールで、小林理学研究所創立50周年の記念祝賀会が催された。三宅静雄、河合平司、能本乙彦、小橋豊などの先生方に久しぶりでお目にかかり、大変嬉しかった。しかし、寂しかったのは、岡小天先生のお姿が見えなかったことである。その頃から、岡先生はご病気であったが、10月20日に82才でお亡くなりになった。11月23日には千日谷会堂で本葬が行われ、全国各地から多勢の人が参会して先生を追悼した。

 岡小天先生は1907年に東京でお生まれになり、青山師範付属小学校、東京府立第五中学校、第一高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学理学部物理学科を1930年にご卒業になった。その後、東京大学物理教室で田丸卓郎先生と寺沢寛一先生の助手を務められ、1933年に大阪帝国大学理学部が創立された時、友近晋先生に誘われ、講師として大阪大に赴任され、1935年には助教授に就任された。

 化学教室の仁田勇先生と呉祐吉先生から、これからは、高分子物理の研究が重要になるので、やってみませんか、と言われたのが、岡先生が高分子物理の道にはいるきっかけとなったと述懐しておられる。その頃、ゴムや繊維の研究は応用化学に属するもので、物理学者で高分子の研究をする人は異端視されたという。後年、次々と新しい研究分野に挑戦してこられた岡先生の研究者としての勇気と積極性が読み取れるのである。

 1939年に小林采男氏の出資で小林理学研究所が設立された時、所長の佐藤孝二先生の招きを受け、大阪大から、小林理研に移られた。丸ビルの8階にあった小林鉱業の事務室にバックナンバーや単行書を集めて、ゴム弾性や高分子物理の研究を始められた。1940年に国分寺に竣工した本館に移られ、20年間にわたる岡研究室の活動を開始された。

 岡研究室には、大川章哉、斉藤信彦、池田勇一、中田修、高見昭、片岡信二などの方々が次々に所属されて、高分子物理に関連した分野で優れた業績をあげられた。所外からも杉田元宜先生をはじめとして大勢の方々がセミナーなどに参加された。

 岡先生の研究の対象は高分子物理にとどまるものではなかった。タンパク質、核酸、ウイルスなどの生体高分子の物理に関する詩文や解説も盛んに発表された。滞米中の湯川秀樹先生から送られた、Schrodinger著の、"What is Life"を鎮目恭夫氏と共訳され、『生命とは何か』を出版されたのは、1951年であった。

 1944年に小林理研に入所した私は、河合平司先生の研究室で高分子の振動的性質の研究を行っていたが、誘電体論や高分子物性について岡先生の暖かいご指導をいただいた。後年は血液の流動や凝固の研究を行い、バイオレオロジーの学会などで、岡先生とお会いすることが多く、最後までご指導とご厚誼をいただいた。

 岡先生は32才から52才までの壮年期を小林理研で過ごされたが、その間に高分子物理やレオロジーの研究は非常な発展を遂げた。1950年から1977年まで、文部省科学研究費に高分子物理班が認められ、先生はその代表者を務められた。1958年に"Reports on Progress in Polymer Physics in Japan"が創刊され、先生はそのChief Editorを務めてこられた。高分子の物理から生物レオロジーにわたるSummary Journa1であり、1990年度は、248論文、760頁の大冊になっている。岡先生が高分子科学に残された貴重な遺産の一つと言えるであろう。1951年には日本物理学会の中に高分子分科会が設けられ、同じ年に高分子学会も設立され、岡先生はその副会長に就任された。

 1949年には学習院大学理学部の教授を兼任され、高分子物理学の講義を担当された。また常陸宮様に物理学の御進講をなさった。1959年、岡先生は東京都立大学理学部の高分子物理の教授に就任された。この頃から、血液レオロジーや生物レオロジーの研究に専念された。1971年に慶応義塾大学医学部教授、1973年に杏林大学医学部客員教授を経て、1977年に国立循環器病センター研究所の所長に就任された。1981年退官して名誉所長となられた。

 1974年には国際バイオレオロジー学会からポアズイユ賞を、1976年には藤原賞を、1981年には学士院賞を受賞されている。

 岡先生は多数の文献や著書を精読し、高分子物理や生物レオロジーに関する多くの解説や著書を著された。先生の文章は非常に分かりやすく、物理的な内容が明快に示されており、数式の誘導も天下りでなく親切であった。先生の著書や解説を読んで、高分子物理やバイオレオロジーの研究に入った研究者は無数にあるに違いない。多くの著書の中でも、『誘電体詩』(岩波書店、1954)、『固体誘電体詩』(岩波書店、1960)、『レオロジー一生物レオロジー―』(裳華房、1974)、『バイオレオロジー』(裳華房、1984)、『Cardiovasucular Hemorheology』(Cambridge University Press,1981)などは先生のお仕事を後世に伝えるものであろう。

 しかし、先生の本質は博識の学者ではなく、独創の研究者であった。1942年の戦時中に、高分子鎖の末端間平均距離を分子内の束縛回転を考慮して計算した式を初めて導き、日本数学物理学会の欧文誌に発表された。しかし、この論文は外国に知られなかったため、1947年に同じ式を導いた『Taylorの式』として引用されていたが、1969年になってやっと『岡の式』と呼ばれることになった。1969年血管壁の円周方向の張力を計算した理論を、順天堂大学の東健彦先生と共著で発表された。その結論は従来の生理学の常識を覆す重要なものであった。

 岡先生は自然の現象や実験の結果を注意深く観察され、その中に存在する原理を抽出して数式として表現することがお得意であった。血液や血管が関与する複雑な生物の現象の中から、それを支配する法則を見抜き、数式で表現する見事な能力を持っておられた。

 先生はある時、外国の学者は年をとっても学会によく出てきて研究を続けていると、感心されたことがある。先生自身も82才の最後まで研究心を失われなかった。国立循環器病センターの研究所長に就任されたのは70才の時であった。臨床レオロジーの研究はそれからのことである。センターを退官された後は、ご自宅でバイオレオロジーの研究を続けられた。退官後発表された論文の内容は、負に荷電した毛細管の中の血液の流動、赤血球沈降の理論、宇宙船内の微小循環の理論などである。無重力状態での血液の流動については、病床にあっても考え続けておられた。先生の年齢を超越した研究への情熱と実践は、後進の研究者への限りない激励であり教訓であろう。

 岡先生は小林理研での20年間を大変なつかしがっておられた。そして小林采男氏の夢が実現しなかったことを残念がっておられた。小林氏は、物理学の基礎研究から出発して、ライフサイエンスの研究にまで発展することを希望しておられたという。しかし考えてみると、岡先生の最大の業績となったバイオレオロジーの研究はライフサイエンスの重要な領域の一つである。国際バイオレオロジー学会を創立したCopley教授は、バイオレオロジーはライフサイエンスの諸分野の懸け橋であると述べている。小林采男氏が小林理研に託した夢は、岡先生の輝かしい業績と先生が育てた多くの研究者の存在によって、その一部は実現されたのではなかろうか。現在の小林理研は初代所長佐藤先生の音響学の伝統を継いだ現理事長五十嵐寿一先生の下で、音響と振動に関する独特の研究所としてその存在を誇っている。将来、ライフサイエンスの一分野である生物音響学の研究も取り上げられるかもしれない。

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