1991/10
No.34
1. 国際化と教育 2. パラボラ付きのハルトマンの噴気発音器 3. 音が出る舗装について 4. AM-08型 エアベロチェッカー
       
 国際化と教育

理事 七 田 基 弘

 国際化の必要性が説かれるようになってから、かなりになる。最初の頃は、国際化ということばを拘りもなく使うことには、密かな反発を感じたものだったが、仕事の上で使っているうちに、いつのまにか、すっかり慣れてしまった。なぜ反発を感じたのか。そもそも国際化ということばが何を意味しているのかがハッキリしていないということもあったが、日本人の相互の付き合い方のなかに基本的な問題があると思ったからである。

 そうこうしているうちに、世の中のほうが様変わりしてしまった。身の回りを見ても道路工事や下水道工事の現場では東南アジアや西アジアの人々が働いているし、バーやクラブでも、フィリッピンやタイのお嬢さんがサービスをしてくれる。上野の界隈には、西アジアの男たちがたむろしている。国際化時代は、いつの間にか先方からやって来たのである。日本からも、夏の休暇を海外で過ごすために出かけていく人々の数は、ものすごいもので、テレビで映し出される成田空港の情景を見ると、それだけでゲンナリしてしまう。

 日本人も、もう今までのように国内だけでのほほんと自分なりの生活を送っているわけには行かなくなった。日本が裕福であると思われているかぎり、東南アジアあるいは南西アジア、さらにラテンアメリカやアフリカからも人々は、容赦なく日本にやってくることになる。今のところは、入国の審査が歯止めになっているようだが、それもいつまで持ち堪えられるか判らない。地理的にも、世界は小さくなり、情報は飛び交い、日本だけが繁栄を独り占めしていることは、許されなくなってきている。

 問題は、日本は裕福だという印象を世界の人々に与えたことにある。一般の日本人は、あなたは裕福ですね、といわれたら、そんなことはありませんと答えるに違いないし、わたくし自身、公務員生活をやって来て、いつから裕福になったのかと聞かれたら、返答に困る。月給が30ドル足らずで、アメリカ軍の将校にヘーという顔をされていたのが、いつの間にか「裕福」になっていたというだけのことである。しかし、現実の日本が豊かであることは確かなのである。世界には、開発途上国を中心に惨めな暮らしをしている人達が沢山いる。誰でも経済的に楽になりたいはずで、日本に行って青い鳥を見つけたいと思っている人は多いはずである。人間として考える場合、この思いと夢を拒絶できるであろうか。日本人が外国に自由に行くことを認めるとすれば、好むと好まざるとにかかわらず、外国人が日本に来ることを拒み難い状況になってきたのである。

 日本に、青い烏がいるといいながら、社会資本の整備状況は、お粗末そのものである。オフィッス街を見れば、個々のビルは先進諸国に劣らないあるいは外観だけは超一流のモダンなものが増えてきた。しかし、都市全体は雑然としている。官庁には、一般には絨毯すら敷かれておらず、内部は陰気で汚らしい。国立大学の研究室の状況も酷いものである。そこで働いている日本のエリートないし中産階級を自負している多くの人々は、マンションと称しながら、その実は、安普請の近代長屋に住み、独立家屋に住んでいる人々にしても、出来立てだけ見栄えのよいプレハブの規格品が住居で、居住空間は、次第に狭く切り売りされていく。下水道や共同溝は、最近になって漸く整備されてきたものの普及率は低く、川の水は、生活廃水で汚れ、蓋をされ、野生の烏や動物も見かけなくなった。どう見ても、世界一裕福な国の都市だとは、到底思えない。アパートや家屋にしても、数年も立てば、薄汚れて見る影もなくなる。国中がスラム化しつつあるといってよい。

 それにも拘らず、開発途上国の人々には、日本に青い烏がいるようにみえる。やって来る人の数は、ますます増える。それぞれの国でエリートと呼ばれる人々だけでなく、いろいろの階層の人がくる。それにともなって、道徳や社会の面で、いろいろのトラブルが生じ、犯罪も増えるであろう。

 このように考えてくると、これに対応した社会的なインフラストラクチュアを整えていかなければならない。教育もその大切な一つである。日本の教育は、今までは、日本国民のことだけを考えていればよかったが、そうではなくなってきている。日本語ができる、できないを問わず、日本に現実に居住している人々に対する教育を日本の国が責任をもって行うことが必要になる。国会における外国人学校法案や国際人権規約の審議の際には、政治的な配慮があってか正面から議論されなかったことが、正面からわが国に迫っているのである。学校教育だけではなく、社会教育でも、対応が必要だし、障害者教育の観点も忘れ去られてはならない。外から入ってくる人達は、社会環境、伝統、道徳的なものの考え方や宗教も異なっており、無筆の人も入ってくる。このような人々は、それだけでも日本の社会に入り込みにくいわけであり、これをどのようにして、日本の社会になじませ、日本の人達と軋轢なく暮らさせるかが教育の大きな問題となる。その子供たちは、親のもっている価値体系と日本の価値体系の板挟みになり、悩むはずである。教育の質を、従来のような日本国民だけを相手にしていたものから、人類全体の視点に立ったものに広げていく必要が起こるであろう。

 教育の問題は、国際法上は、伝統的に、国内問題であり、国際機関や他の国は、これに嘴を挟まないのが当然であると考えられてきた。しかし、国際連合という包括的な国際組織が成立し、外国人問題や人権の尊重が条約で保障され、また、高等教育における研究、卒業と学位を国際的にも相互に認め合うことを決めるような動きのなかでは、教育も、国内問題では済まなくなってきている。

 わが国は、教育の面では、世界でも制度的に整備された国の一つである。この点から、今後は、日本としても、その経験を背景にして、もっと積極的に開発途上国への教育協力に乗り出すべき時期にきている。もちろん、教育が、その行われる社会の倫理観や宗教や政治的な背景と密接な関連を有し、先ず、国内問題であることは、確かであるが、価値観の根源に触れない技術的な援助は可能なはずである。障害者の教育問題も、わが国にとって、国際的に貢献できる大きな分野である。障害者問題は、老人問題とも、密接な関係があり、生涯教育の立場から行われなければならない。この分野においても、東南アジアや西アジアの諸国の状況は、悲惨である。

 神奈川県横須賀市の久里浜に在る国立特殊教育総合研究所では、国際連合教育科学文化機関(ユネスキ)と共催して毎年秋に障害児童生徒の教育に関するシンポジウムを開いている。その機会に補聴器など日本の特殊教育の先端を行く機械器具を展示してもらっている。数年前、聴覚障害をテーマにしてシンポジウムを開いたときに、タイ国から来た参加者から、溜め息まじりで、当時、同所の聴覚障害教育研究部長であった今井秀雄氏に、こんなによい補聴器をタイの子供に欲しいが、予算もない、日本の子供達が要らなくなった補聴器を貰えないだろうか、という話があり、今井氏が肝入となって、使用済みの補聴器を集めて、タイに送ったことがある。

 ODAの問題が最近取り上げられている。いろいろの議論があるようであり、援助対象国政府の要請を無視することはでき難いが、今までの実績は、聞くところによれば、往々にして、援助国の政府ないし指導的な立場にある人たちと現場が本当に必要とするものの間には、落差があるようである。日本人の血税(あるいはこれからは外国人の血税も入るようになるであろう。)を出して援助する以上は、長い目で見て本当に役に立つ、地味であるが、開発途上国が自分で熟す力が付く事柄に重点をおいていくべきであろう。そのためには、開発途上国の初等中等教育に貢献できるものが良い。

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