2022/10
No.158
1. 巻頭言 2. 時田先生を偲ぶ 3. inter-noise2022
4. 軟骨伝導補聴器の開発(第2報)

 
  心の風邪と予防ワクチン  


  理 事 長  山 本  貢 平

 順風満帆な人生を歩んできた青年が40 才を越えた頃、突如精神的に落ち込むことがある。ユング心理学者の河合隼雄は「中年の落ち込みというのは誰にでもあり得ることで、一度落ち込むとそこからなかなか抜け出せなくなる。そして、いかにしてそこから這い上がれるかが、その人の後半の人生を決めることになる」と語っている。

 ではなぜ、すべてが順調であった人が中年になって落ち込むのだろうか。それは、人生80 年の中間点を過ぎる頃が人生の折り返し点、或いは変曲点にあたるからである。そういう時期には職場や家庭に思わぬ環境変化が起こり、そのことが人の心に強い負荷を与える。例えば、職場で人を使う立場になれば、人を動かすという慣れない仕事の中で、解決できぬ微妙な人間関係に強いストレスを感じる。またこの年齢に達すると、親しかった友人や両親・兄弟など、自分にとってかけがえのない人々との死別という、突然の深い悲しみを経験することもある。さらに、自分自身の健康問題と死への恐怖、家族との絆や金銭問題が絡んだ将来への不安などが次々に現れる。

 人生の折り返し点で経験する多くの心の痛みは、「これからの人生、いかに生きるべきか」という根源的な問題にも発展する。順調なときには考えもしなかったことである。そして、答が得られないまま不安と絶望の淵に立たされて憔悴することもあるだろう。他人の目には、まるで「心に風邪をひいたような病める中年」がそこに映っている。そして我々は、理工系の学校で教育を受け、科学や技術など専門性の高い技術は習ってきたが、「人はいかに生きるべきか」という「生きる技術」を習ったこともなければ「生かす技能」もない。それゆえに、順風満帆な人生を越えた時点で、このような根源的問題に遭遇すると、理工系の人間はいっそう深い不安や精神的痛みを感じて心を病み、長い間復帰できなくなるという脆弱さをもっている。

 私は、常日頃から文学作品に親しむことが、このような落ち込みへの予防対策になると考えている。多くの文学作品は、国や時代を超えて様々な環境に置かれた人物を取り上げ、主人公に悩みや苦しみを与え、苦悶する生きざまを描き出している。つまり、1つの作品を読むということは、読み手である自分が登場人物と同一化して同じ人生を体験する、すなわち他人の人生を疑似体験するということである。それゆえ疑似体験が多いほど「心の痛みの閾値」を高めることができるであろう。このことが心の風邪を抑える予防ワクチンであり治療薬でもあると考えている。

 文学作品といっても近代文学から古典文学まで様々なものがある。例えばギリシャ悲劇「オイディプス王」(ソフォクレス)のように「破滅の宿命」を壮絶に描いた作品も良いかもしれない。手始めにまず何か1冊を選び、1日に5頁読めば10 日で50 頁、1か月で150 頁、2か月で300 頁の文庫本は読める。これを続ければ多くの人生経験を積み重ねることができるであろう。こうして中年からの後半を再び順風満帆で豊かなものにできることを期待したい。

-先頭へ戻る-