2017/4
No.136
1. 巻頭言 2. 第5回米国音響学会 日本音響学会合同会議報告 3. 三角点・三角測量・トランシット 4. 地震警報記録装置 SM-47
 

 
  写真は芸術たるか  


理事  吉 村 純 一

 大学時代に哲学の授業で、問答好きの講師が、真ん中でたむろする我々が建築学科の学生と知ってわざわざ教壇から降りてきて「建物の写真は芸術であろうか」いや「単にそこに物のある一瞬を切り取っただけ」ではないか、と 問いかけてきた。無論、前者のなんたるかを引き出そうとしておられたのであろう。構図やアングルがどうのこう の、見せたいところにフォーカスするのが撮り手の意志、カラー写真だと情報過多で単なる記録写真?などなど様々な意見が飛び交っていた。

 辞書によると「芸術」とは、表現する者と鑑賞する者とが互いに作用し合い、精神的・感覚的な感動を得ようとする活動、とある。

 神社仏閣の写真を見せて建築様式を説明くださった日本建築史の先生からは、背の高い建物や塔などの写真を自然に撮る技術として「あおり」を教わった。今の一眼レフやデジタルカメラでは訳ないのであろうが、その当時はスライドするレンズやジャバラカメラを使わなければならなかった。先生は「画面の下半分を無駄にすればいいんだよ」とおっしゃった。一方で、通視投影図法を学んでいたので、なるほどレンズを通した屈折画像だけでなく、観る人に自然に見せる心得が必要なのかと得心した。今でも尊敬する先生である。

 ベデ研(ベーシックデザイン研究会)の先輩からは、建築のデザインとは、図面をひくだけでなくパースや模型を作って自分に合ったパターンを探しているに過ぎないが、どんなパターンが美しいかを選択し、訴えかける印象へと導けるかが凡人と巨匠の違いだとも言われた。考えてみれば、確かにスケッチしか残していない建築家もいる。

 以前父にヨーロッパで撮ってきた古城の写真を見せたとき「ここの脇にオレンジ色の服を着た女性を入れて撮れたら最高なのだがねぇ」と言われたことがあった。初めて行った処でそんなことできるか、とヘソを曲げてみたが、 今考えるとそれを成し得る(自身の嗜好に合うまで試行できる)人が、写真家であり映画監督なのであろう。

 最近はほとんど建物の写真を撮る機会は無くなり、早朝と昼休みに撮る四季折々の草花や野鳥の記録写真に終始 している。いっこうに撮影技術を磨こうとしない私の写真が芸術とはとてもいえないが、イメージ通りの写真が撮れたときの喜びは何なのであろう。野鳥の撮影では、たとえシャッターチャンスを逃がしても連写を使おうと思わない。強風に揺れる大輪を手で押さえようとは思わない。手ブレでピントや露出を合わせられなかった「間」「瞬間」 が、相手からの作用(メッセージ)なのだろうから。

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