2007/4
No.96
1. 研究者の倫理観考 2. 4th Joint Meeting of ASA and ASJ, inter-noise 2006報告 3. 空中聴音器

4. オープン補聴器リオネットロコ

   
 
 研究者の倫理観考

所 長  山 本 貢 平

 フィジカという言葉に出会った。アリストテレスの時代に「自然の模倣」という意味であったらしい。フィジカを現代風に言えば、広い意味の科学または自然科学である。自然科学は「没価値性」の学問とも呼ばれる。自然法則自身には価値といえるものが含まれないとの意味である。しかし、アリストテレスの時代に比べると、現代には逆に「価値を内包」する学問がなんと多いことか。技術(テクノロジー)または工学(エンジニアリング)はその典型である。それらは、自然科学(サイエンス)で見出された一般法則を利用して、人間に利益をもたらす方法を生み出す学問である。技術の発展によって、これまで、どれほど多くの人間がその恩恵に与ってきたことであろうか?

 お爺さんは、もう山に柴刈りに行く必要もなく、お婆さんは川に洗濯に行く必要もなくなった。今は、ボタン一つを押すだけでよい。電気・電子の発見が、その工学的利用としての冷暖房機や洗濯機の発明につながったためである。  技術の進歩は、国の政治・経済に大きく影響を与える。それゆえに、国は科学研究助成費として膨大な予算をつけ、企業は資本主義の原則にならって大きな研究費を使う。従って、研究者は大きな研究予算を背負って、その額の対価としての研究成果を生み出す使命を担わされることになる。そのような重圧の中、時折新聞紙上を賑わせるのが、「研究費の不適切な使用」、「実験データの捏造」である。研究者の行動の規範や倫理観が、社会的に問われるのはもっともなことである。それゆえ、研究者の集まりである学会の多くは、会員の行動規範や倫理綱領を定めて、会員にその遵守を求めるようになった。例えば不正行為の防止、研究遂行における人権や環境の保護、人類への福祉や貢献などである。これらを読むと、いずれも社会人として或いは人間としての、ごく「常識」が記述されていることに気づく。研究者だから特に守らなければならないというものでもない。

 しかし、研究者の倫理とは常識や理性だけで理解できるほど簡単なものなのであろうか? ヒトの生命を扱う医学や生命科学の分野を考えよう。かつて話題になった「人の脳死判定と臓器移植」は? 遺伝子組み換え技術を用いたクローン作製や病気治療、延命治療などは? いずれも、これまで人類が経験してきた自然の脅威や病気からヒトを守るという、人類の幸福(安全・安心)追求思考の延長線上にある。従って、その研究活動は倫理綱領に外れているとはいえない。しかし、ヒトがヒトの死を決める(脳死判定,安楽死,延命治療)、ヒトが人工的にヒトを作る(遺伝子操作)となると事情が異なる。常識や理性だけでは判断できないものがある。倫理にはヒトの感性、理性に加えて神性(宗教観)というものが介入して来ざるを得なくなる。人間にとって根源的な悩み「生老病死」を、科学や技術が解決しようとする時、そこにはもっと深い意味の倫理観が必要になるのではないか? それは、人々の宗教観に根ざすであろうから、人類普遍の倫理観というのはないのかも知れない。このように考えると研究者の倫理観といっても、形而上学の霧の中にしか存在しないと思われる。さてフィジカは研究者に一体どこまでの自然模倣を許すのだろうか?

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