2023/ 4
No.160
1. 巻頭言 2. 山下充康前理事長のご逝去を悼む 3. 光散乱式液中微粒子計測器 KS-20F

       
  山下充康前理事長のご逝去を悼む


    山 本 貢 平、杉 江  聡、土 肥 哲 也

 ある日、自宅の本棚を整理していたところ、見覚えのある新書本「理科系の作文技術」(木下是雄著)に目に留まりました。手に取って表紙を開くと、万年筆で「山本君へ、お正月休みにでも勉強してください。山下充康、Dec.1, 1981」と書かれていたのです。懐かしさとともに「山下さんは最近どうされているんだろう」との思いがよぎりました。そしてその翌日、一枚のはがきが自宅に舞い込みました。薄墨で書かれた文字は山下前理事長の逝去を知らせていました。つい昨日の回想と隣り合わせるように、訃報が届いたことに一瞬の震えを覚えました。早速お嬢様に連絡を取ったところ、「4年余りのリハビリ入院の末、2022 年10 月24 日のお昼頃、帰らぬ人になりました」とのことでした。享年84 歳でした。
 山下氏は、学習院大学理学部を卒業後、1962年から小林理学研究所に勤務されました。それ以来、2016年までの50 年以上にわたって当所の所長、理事長、リオンの社外取締役を務められ、長年にわたり活躍されてきました。1980年代には小林理研の事業を、それまでの基礎物理研究から応用物理研究に移行させ、委託研究を財政基盤とする騒音・振動問題の専門研究所とすることで当時の財政難も乗り越えました。委託研究のための施設として、大型模型実験室、低周波音実験室、斜入射実験室、建築音響研究室棟などがこの頃作られています。
 山下氏自身の研究業績で注目されるのは、「線状音源に対する回折減衰計算図表」です。この図表は山下氏独自のアイデアで産み出された線状音源による実験結果から得られたものであることを御存じでしょうか。音源装置は鋼製のカーテンレールに多数の鋼球を注入した構造で、装置を揺することにより鋼球同士の衝突音が線状に広がるというものです。この線音源を用いた回折実験の成果が前記の図表に整理され、日本音響学会の佐藤論文賞を受賞しています。さらに日本音響学会の道路交通騒音予測式(ASJ RTN Model 1975)に、この図表が採用されました。その後、この線状音源は道路交通騒音の縮尺模型実験にも広く応用されました。
 当時、電気を使わないで音波を発生する実験装置は画期的でした。山下氏自身も音の出る機械装置には強い興味を持たれていました。代表的なものは蓄音機です。それは機械学的・音響学的工夫によりレコード音楽を大音量で再現できるのです。さらに関連する様々な音の道具たちを収集するようになり、ついに小林理研の音響科学博物館を開館するに至りました。展示品の由来や特徴は小林理研ニュースの骨董品シリーズに執筆されました。
 対外活動に目を向けますと、1998 年~ 2000 年には、(社)日本騒音制御工学会(現 公益社団法人)の会長を務められました。その間、騒音制御技術の発展に貢献されるとともに、環境行政との関りにおいても施策の推進に協力されていました。また、環境庁(現 環境省)の「残したい“日本の音風景100 選”」(1996 年)の選定検討会座長も務められました。これらの業績が評価され、2006 年には騒音制御工学会より研究功績賞を授与されています。そして2009年には名誉会員となられました。
 ところで、普段の山下氏は、とても「人懐っこい人」であり、「気配りの人」でもありました。また、人との会話も洒脱であってユーモアに溢れていました。それゆえにお付き合いの幅が非常に広く、学者から行政人、企業人まで多くの方々と親しくされていました。もう二度とお目にかかって会話を楽しめないのは残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。

【略歴】
 1962年 3月 学習院大学理学部物理学科 卒業
 1979年 3月 工学博士(東京大学)
 1985年 4月 (財)小林理学研究所 所長
 1994年10月     同   理事長
 1995年 6月 リオン株式会社 取締役(非常勤)
 1998年 5月 (社)日本騒音制御工学会 会長
【主な受賞歴】
 1974年 6月 (社)日本音響学会 佐藤論文賞
 1994年 6月 環境庁 環境保全功労賞
【主な著書】
 『騒音工学』 1988年5月コロナ社刊(共著)
 『音 戯 話』 1989年7月コロナ社刊
 『音 饗 額』 1991年12月建築技術刊
 『謎解き音響学』 2004年8月丸善(株)刊

(理事長 山本 貢平)

 山下前理事長がいらした部屋は、本館二階への階段を上がった正面にあり、当時、扉はいつも開いていましたが、パーティションで仕切られていて中は見えなかったと記憶しています。しかし、今はそのパーティションはなく、外から差し込む光が非常に綺麗で、光に向かって階段を上っていく感覚にとらわれます。その光景を目にすると、前理事長がその光を背に座っていらしたのを思い出し、元気にされているかなとよく考えていたものでした。そこに、昨年訃報を突然知り、非常に残念な気持ちでいっぱいになったことを覚えています。
 当研究所の先輩やOBの皆さんの中には、前理事長と業務や研究を一緒に行った方がたくさんいらっしゃると思いますので、私のような若輩者がここに寄稿するのは、非常におこがましいことと思いますが、山下先生の研究室卒業生のひとりとして、思い出話をいくつかご紹介したいと思います。ここで「先生」と書きましたが、私が大学生のとき、学習院大学理学部物理学科で「音響学」という講座をもっていらして、当研究所も卒業研究を行う研究室のひとつでした。
 私が先生と初めて出会うのは、3年生のときの音響学の授業です。おそらく、この授業をとらなかったら、今建築音響という分野に従事していなかったと思いますので、私の人生にとっての非常に大きなターニングポイントだったと思います。物理学科の授業のほとんどは、難しい数式が黒板を埋め尽くし、今では有名となった βδ というギリシャ文字のオンパレードでした。その中、先生の授業は全く違っていました。数式は全く現れず、音とはなにか、騒音の問題とはなにか、それはどんな影響を与えるのかを、言葉巧みに説明してくださいました。その説明が非常にわかりやすく、魅力的で、一瞬で虜になったことを覚えています。話術が巧みで、ユーモアにとんだ授業であり、そのとき、4年生の研究室は山下研究室にしようと決めました。
 山下研究室の学生は、当研究所の各研究室に1~2人ずつ配属されました。私は、当時あった騒音振動第三研究室の配属となりました。実は、4年生だけではなく、そのまま修士課程でもお世話になることになります。山下研究室では「自分で学ぶ」というのが基本スタイルでしたので、先生から厳しく研究の指導を受けたという記憶はありません(配属先の研究員の皆さんからの指導は厳しかったのですが)。しかし、研究発表等のプレゼンテーションのやりかたは厳しかったと思います。学生にはよくありがちなことですが、検討したことを全て話そうとしてしまう私に、情報を適切にトリミングし、起承転結をはっきりさせる方法を根気よく教えてくださったことを覚えています。そのご指導のためか、学習院大学の他の研究室よりも、山下研究室の発表はわかりやすいという評判でした。
 修士課程修了後、幸運にも当研究所に就職することが許され、当時研究していた吸音材のことが続けられることがうれしかったことを覚えています。先生は、私が就職した年に所長から理事長になられました。職員になった私への先生の接し方はあまり変わらず、ユーモアあふれるお茶目な先生でした。例えば、廊下ですれ違うと、私に「ひょっこりひょうたん島、元気か」とよく声をかけてくださりました。「ひょっこりひょうたん島」はNHKで1964年~1969年放送していた人形劇です。私は1969年生まれなのでよく知りませんが、おそらく、そこに出てくるあるキャラクターに似ているのだと思います。理事長になられた後も、職員との距離感が近い先生だったと思います。
 先生はバイタリティーに溢れているなぁと思う瞬間が何度かあります。私は大学生の頃、フランス会部というフランスの喜劇を行う部活に所属していました。他の物理学科の先生には物理を学びに来ているのに、演劇をやっているなんてけしからんと言われたことがありますが、先生とはモリエール等の喜劇作家について盛り上がったことがあります。これまで、先生以外他の誰ともフランスの古典喜劇を話題にしたことはありません。
 当研究所には社員旅行があります。2002年の6月か7月の旅行だったと思います。どこに旅行したのかは覚えていませんが、ちょうど日韓サッカーワールドカップが開催されていました。というよりも、その日が開幕日であったと思います。サッカーファンの私は、宴会をそこそこに部屋に戻って、テレビで開幕戦を視聴しようしたところ、先生も観たいということで、旅館のテレビの前に、二人で並んでサッカーを観ました。今思えば、浴衣を着た大人二人が小さなテレビの前に座っているのは、少しシュールでおもしろい光景だったと思います。
 最後に。毎年1月に開催されていた日本音響材料協会の新春賀詞交換会では、先生はいつも着物で出席されていました。それが様になっていて格好よかったのです。帰られるときに、会場のロビーまでによくお見送りしていました。目を瞑ると、着物の先生の背姿が今でもまぶたの裏に浮かびます。先生、さようなら。たいへんお世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。
(建築音響研究室長 杉江 聡)

 先生との最初の出会いは、目白にある学習院大学で受講した「音響学」の講義でした。先生の講義スタイルは理学部物理学科の中ではかなり異質で、黒板に式を書くことはほとんどなく、代わりに音に関する写真や絵などをOHP(オーバーヘッドプロジェクター:透明なシートに印刷した文章や画像を投影するプレゼンテーション用装置)でスクリーンに写し、音に関する現象とその考察、余談などを説明していただきました。その講義内容の一部をまとめたものが書籍「音饗額」や「音戯話」だと聞いたのは大学を卒業したかなり後のことでした。先生のわかり易く興味深い話は、テレビの「世界一受けたい授業」や、NHKラジオの音特集番組などでも放映・放送されました。「音響学」は、理学部物理学科向けの単位でしたが、そのわかり易さから文系の学生も履修しており、先生もそのことを気に入っておられたようでした。私も先生の音に関する興味深い話に引き込まれ、その後、卒業研究生として学外の研究室である当所(学生の間では山下研と呼んでいた)で音の研究を始め、結果的に入所するきっかけとなりました。当時、先生は当所の理事長で、山下研といっても先生に直接指導を受けるのは卒業発表練習などの要所だけでした。しかし、発表練習では厳しく指導をいただき、相手に興味を持って貰いつつわかりやすい表現で物事を伝える方法など多くを学びました。なお、目白で行われた卒業研究発表会では、山下研の学生だけスーツ着用でしたが、それは先生のご意向であり、今思えば先生の性格を垣間見た瞬間でした。
 先生は音の世界の魅力を一般の人を含めた多くの人に知っていただくことを強く考えておられたのだと思います。私が入所後に理事長室にお邪魔すると、決まって応接テーブルに音に関する骨董品や道具が置かれており、「土肥先輩(なぜか私は先生にこう呼ばれていた)、この道具はなんだと思う?」などと聞かれました。当所に音響科学博物館が開設されたのはそれから間もない時期でした。当所には一般の方を含め中高学生が見学にいらっしゃる機会があり、音の世界に興味を持っていただくことに博物館が大変役立っています。
 先生は、音の骨董品に造詣が深かった(小林理研ニュースの骨董品シリーズはその103まで、30年近く続いた!)のですが、車、カメラ、PC などの「物」にも関心が高く、愛用されていたノートPC のシリーズはニューモデルが出る度に買い替えられ、その度に六本木の先生のお宅に呼ばれてPCの設定をさせていただきました。今では全て懐かしい思い出です。ある時、年始に六本木に伺うと数百枚以上の年賀状が机の上に並んでいたのを目の当たりにしてその数の多さに驚きました。思えば先生は研究所でも手書きの礼状や手紙をいつも出されていました。昨今希薄になりつつある挨拶、お礼といった先生からすると当たり前であろう人との付き合い方、人となりを教えていただいた気がします。

写真1 学習院大学の卒業謝恩会会場にて(1995 年3月)
左から山下先生、山下研同期の中市さん、筆者
 先生には音響学のみならず多くの事を学ばせていただきましたが何もお礼はできていません。学習院大学の講義「音響学」は、その後、落合さん(現 当所協力研究員)から私へと引継がれ、約30 年前の山下先生の講義を思い出しながら何とか継続しています。今でも「音響学」には文系の学生が履修していますよ、と六本木にあるお墓から先生にお伝えしたく思います。先生のお墓には「音」の文字が刻まれています。空から先生が私の音響学を聞かれているような気がします。
(騒音振動研究室 土肥 哲也)

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