2008/10
No.102
1. 巻頭言 2. 墨 ツ ボ 3. 第32回ピエゾサロン 4. リオネット ルーク(RUHQ)
   
 
 <骨董品シリーズ その68>
      墨  ツ  ボ

理 事 長  山 下 充 康

 数号前に「製図用具セット」を取り上げた(骨董品シリーズ その66「製図器械」 小林理研ニュースNo.100 2008/4)。その記事で製図用具が実験のために装置を手作りしていた研究者たちにとって不可欠な道具だったことを紹介させていただいた。旋盤やフライス盤を使って金属加工をする工場の職人たちに注文するには正確な設計図を描かなければならなかった。

 製図用具セットが金属加工に不可欠な道具だったのに対して木工作業用具は陰が薄かった。とは言うものの、木工も音響実験にしばしば重要な役割を担っていた。  木工作業には「墨ツボ」が使われた(図1)。今回は墨ツボを取り上げる。
図1 木製の墨ツボ

 音響科学博物館のガラスケースの隅に一個の旧い墨ツボが展示されている。見学に訪れた方々からしばしば墨ツボと「音響科学」との関係が不可解であるとのご指摘をいただく。この墨ツボは鄙びた骨董屋で、非対称に作られた形が興味深くて買い求めた物である。店の主人が言うには韓国李朝の墨ツボとのことである(図2)。
図2 韓国李朝の墨ツボ

 さて墨ツボの話。小林理学研究所の研究業績の一つに消音ダクト(サイレンサー)の開発がある。「直角曲がりダクトの減音効果」、「吸音材料内貼り直管ダクトの減音効果」などについての研究成果は関連のハンドブック(騒音対策ハンドブック、建築音響ハンドブックなど)の資料にもなり、ダクトによる減音効果の近似計算方法を提示するものとして今日でも広く利用されているところである。

 空気の流れを妨げることなく、送風機の騒音を遮断したり、ダクト内を伝わる様々な音響の伝搬を遮断するために効果的なダクトを設計することは音響研究者にとって大きな課題であった。

 ダクトの音響伝搬特性を実験的に研究するのに寸法の大きな木製のダクトモデルが使われた。実験室の床面を一辺が数メートルにも及ぶ様々な形状の木箱が占領していた時期がある。内面に吸音材料を貼りこんだり仕切り板を設けたりしてダクトの出口と入り口での音圧レベルを測定したものである。

 ダクトモデルは実物の半分程度の大きさであったが、内部の音が側面から外部に漏洩するのを避けるために厚い木の板で頑丈に作られていた。

 四角い板(当時はホモゲンホルツという再生木材が使われていた)から目的にあった形に板を切り出してこれを組み立てて実験用のダクトを製作した。ここで活躍したのが墨ツボであった。

 大きな板に定規をあてがって規定の位置に直線を描く。丁寧にノコギリで切り出した材料を鉋や鑢で微調整して接着剤と木ネジで組み立ててから音響実験の開始である。大きな板に直線を引くのには墨ツボがこの上なく便利である。

 墨ツボは古くから大工道具として使われていたらしく奈良、東大寺の南大門の屋根裏に残されていた墨ツボの話は謎めいていて興味深い。墨ツボは「曲尺」とともに大工の重要な道具とされている。今日ホームセンターなどで市販されている墨ツボは合理的に造られているが(図3)、姿形に昔の墨ツボのような面白味が感じられない。そんな意見も少数ではない様で、プラスチック製ではあるが鶴亀を配した昔ながらのデザインの墨ツボも販売されている(図4)。
図3 現代の墨ツボ
図4 プラスチック製の墨ツボ

 糸を巻き取る「壷車」、「池」と呼ばれる墨入れ、「池」の周囲に飾り彫りされた鶴と亀、糸の先端に結ばれた「カルコ」と呼ばれる針・・・見て居ると飽きることが無い。墨のついた糸を本体から手繰りだしてカルコに一端を固定された糸をピンと弾くと木材の表面に黒々とした長い直線が写し出される有様は見事である。大小様々な墨ツボが出回っていて墨ツボのコレクターも少なくないと聞く。

 東大寺南大門の墨ツボが単に宮大工の置き忘れ物なのか、はてまた奉納物なのか、墨ツボが発明されたのはいつ頃なのか、謎めいた道具ではあるが音響研究に利用された重要な道具であったことを思いつつ骨董品に加えさせていただいた。

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