1998/7
No.61
1. ピエゾ電気の誘い −音響入門の頃 − 2. 音響パワーレベルの測定システムの紹介
 
 ピエゾ電気の誘い −音響入門の頃−   
                         

名誉顧問 五十嵐 寿一

はしがき
 ピエゾ電気を表題にしたのは、小林理研がピエゾサロンを計画して、最近の圧電分野の話題について、専門家のお話しを伺うことになっていることにヒントを得たもので、専門外の私が圧電現象について述べるつもりではない。私が音の分野に足を踏み入れたのは、五十数年前大学の卒業研究で、偶然水晶の振動子について実験を行ったことがきっかけになったように思われるからである。続いて戦時中も水中のマイクロホンとして、ロッシェル塩とも深い付き合いがあった。

卒業実験で水晶の振動子
 大学に入った当時、ベートーベン、モーツァルト、ショパンのSP(78回転)レコードを集めて、ビクターの“His Master's Voice”という名盤のある手回し蓄音機による音楽を楽しんだり、N響の会員になって日比谷公会堂における定期演奏会によく通 った。しかし、この頃は単純に音を聞いて楽しむだけであった。その後、卒業実験を始めるにあたって、くじ引きできめることになり、X線結晶学の西川研究室に割り当てられることになった。指導教官の西川正治先生、助手をされていた上田良二先生の指導で、水晶振動子が発振しているときの水晶片の振動モードについて調べるテーマが与えられた。同期で後に日本電気に就職した佐藤鉄太郎君と一緒に、X、Y、Rカットの水晶片について、共振しているときの内部歪をBragg typeのSpectrometerを使ってX線のラウエ写真を撮影することになった。X線の高圧電源のある薄暗い実験室で、一年かけてようやく英文の卒論を完成することができた。今読んでみると、記述されている内容は勿論、英文についても両先生に大分お世話になって直していただいたらしい。この研究については、卒業した年の春の物理学会で初めて研究発表1)を行なったが、この発表会では、たまたま普通 の塩にも放射能があるという発表があり、熊谷寛夫先生はじめ著名な先生方が大論争をされた時で、我々(佐藤鉄太郎君と共著)の発表はかげの薄いものであった。大学ではこの実験と並行して、統計の平田森三先生と地球物理を担当されていて後に中央気象台長も務められた、藤原咲平先生の課題研究として、ガラスの割れ目に関する実験を行って、「熱歪による硝子の割れ目」という題で「応用物理」2)に投稿した。その内容は、ガラス板を加熱して水やドライアイスに入れたときに、温度差に応じて特有の割れ目ができる実験で、地層の岩石の割れ目の生成原因とも関連した研究であったことを改めて認識した。

航空研究所で音響入門
 卒業のとき西川先生の推薦によって、航空研究所の佐藤研究室で音響・振動を研究することになった。振動と聞いて水晶の振動となにか共通点があると考えたのかもしれないが、振動はともかく、それまで学校の物理で音についての講義を聞いた記憶もほとんどないまま、この世界にとびこむことになった。航空研究所において最初に与えられた研究テーマは、板の振動モードだったと記憶する。Ritzの微分方程式から基準振動を計算する複雑な文献に取り組んだ思い出がある。

 この年は暮れに第二次大戦に突入した支那事変の最中で、佐藤先生が委託研究として軍から受けられていた、飛行機のプロペラや戦車の防弾鋼板の振動モードの実験も同時に行なうことになった。このプロペラは昭和13年に無着陸航続距離の世界記録を樹立した航研機用に試作されたもので、ジュラルミンの3枚羽の一枚で、長さが1.9mである。実験としては、試料の表面 を電磁レシーバーによって加振したうえ、蓄音機のピックアップによって振動面の振幅分布を測定した。プロペラではねじり振動のモードが顕著に現われ、その振動減衰の半減期も長いことから、高速においてこの共振周波数でプロペラが破断するものと考えられた。また、80cm角で厚さ5cmの戦車に使われる防弾鉄板についても、振動モードの測定とともに、表面 を打撃して振動が減衰する状態を観測することにした。特殊鋼飯は材質の不均によって破断することがあるので、振動モードの不規則性と振動減衰の経過からも材質の良否が判定できると考えられた。振り子にした鋼鉄球を鋼板に当てることにしたが、打撃によって短時間に減衰する現象を記録する必要があり、この振動波形を円周50cmほどの電磁オッシログラフに収録するには、打撃の瞬間と露出用のシャッターとのタイミングを合わせる必要がある。これについては、同じ研究室の久保さんといろいろ苦労して手製のリレー回路を作成した。電磁オッシログラフは、当時振動や音の液形を測定する一つの方法で、磁極の間に吊された2本の平行な銅線に鏡がついていて、これが直径1.5cmほどの油のはいった円筒の中に収められ、油をダンパーとして回転するようになっている。この回転は入力電流に比例するので、この鏡に光をあててその反射光を回転するドラムに巻いた印画紙に感光させて振動波形を収録する。もちろん当時すでに陰極線オッシログラフもあったが、この撮影装置ができたのは戦後になってからである。この頃、佐藤研究室には以前使われた飛行機の爆音を検知する空中聴音機が、回転する架台や二つの木製のラッパとともに残されていた。また、航空研究所には音響研究室として小幡研究室があって、ここでは牧田康雄氏等によって模型によるプロペラの振動、噪音によるマスキング、音声及び楽器等の研究が行われていた。

戦争勃発
 この年の12月8日に大東亜戦争が始まり、最初はハワイ及び東南アジア地域における戦果の報道に沸き返り、航空研究所にも東南アジア方面で捕獲したとされる最新のレーダー装置が運びこまれたと聞いていた。年が明けて1月の末には、私も短期技術将校として入隊することになって、相模原にあった陸軍兵器学校で約3ケ月のいわゆる軍隊生活を経験した。5月には訓練も終了して兵技中尉に任官し、名古屋造兵廠千種製作所に配属になった。ここは航空機関砲の製造をしていて、配属されたのは金属部品の切削や検査に用いる工具の生産を担当する部門であった。そこで工場管理をやることになったが、素人では下手な口出しもできず、たまたま工場内にドイツ製の微小変位 を測定する装置が埃にまみれているのを発見し、組み立て直して現場で使用することを考えた。これは電気的な共振回路を構成するコンデンサーの容量の変化から変位の微小量を検出するもので、いわゆるハートレイ回路といわれているものの応用である。この名古屋勤務も8ケ月ほどで、翌2月には東京練馬の大泉にあった予科士官学校の物理教官を命じられたが、講義の内容はともかく、軍隊口調で授業をする必要があって、言い替えることもしばしばで大分苦労した。しかし、そこも3ケ月勤めただけで、大久保の戸山ケ原にあった陸軍第七技術研究所に移ることになったが、これは陸軍の嘱託をしておられた佐藤先生の推薦であった と思われる。

陸軍で水中音響
 第七研究所は主として物理兵器の研究所で、配属された部署は、陸軍というのに水中音響の研究が行われていた。陸軍も軍隊を輸送する船を持っていて、戦争がはじまってからは海軍の協力を得ることが難しく、独自に潜水艦から輸送船を守る必要があると聞かされた。(実際には陸軍と海軍の仲が良くないという噂もあった)また戦争になってからは、陸軍も兵員を輸送する非武装の潜水艦を建造することになり、これらの船や輸送船に装備する潜水艦に対する受音システムの開発が我々の主要な任務であった。この頃開発されたロッシェル塩をセンサーとした水中マイクロホンについて、耐水圧試験、マイクロホン相互の位相マッチングや複数のマイクロホンを使った装置の指向性試験等が通常の業務である。水中における音の到来方向を求めるため、2個のマイクロホンの間に仕切り板を置いて全体を回転し、双方のマイクロホンの感度(出力)が同じになる方向を求める簡単な装置から、直径2メートルほどの円形のリングにマイクロホンを等間隔に配列して、互いの位 相を電気的に調節して直線配列と同等の指向性が得られる(位相の調節による)指向性マイクロホンの試験も行なわれた。(マイクロホンを円周上12個等間隔に配列すると、角度30度毎に最大指向性の方向が得られる)また伊豆海岸まで出かけてこれらの海中試験を実施することもあった。使用したマイクロホンはほとんどロッセル塩素子をセンサーとしていて、日本電気、沖電気で制作されていたが、小林理研においても河合先生を中心にその開発と制作が進められ、日本航機という会社で匡体を生産して組み立てられ、MK型ハイドロホンといわれていた。実験はそれらの総合試験にもなっていたので、小林理研からも河合、小橋両先生が海上の試験に参加された。

  このほか、陸軍が沖電気に開発を委託していた水中探信儀(ソナー) (ス号)の試験のため、輸送船に乗り込んで海上試験も行った。潜水艦を探知するため、第一次大戦のときには水晶をつかったLangevin振動子が用いられていたが、この頃の探信儀には超音波(13kHz)の送受信に東北大学において開発されたアルミと鉄の合金アルフェロ(これは磁歪振動子)という材料が使われていて、3k wattの電気入力で約2kmからの反射音を確認することができたが、海の状態によって極めて不確実であった。別に小型の探信儀(ラ号)もあって、こちらは500mからの反射を確認するのがせいぜいであった。これらの探信儀とは別 に、横須賀要塞の海岸には定置用の探信儀も設置されていて、最大20km先の船舶の推進音が受信できると聞いていたが、海軍の所管になっていて現物は見ていない。

  一方、水中マイクロホンの感度を校正する方法として、米国の科学雑誌(RC社)にマイクロホンの相互校正法の記事を発見して、水中マイクロホンの相互校正の試験を海に出かけて実施したが、その文献も測定した結果 も残念ながら残っていない。空気中におけるマイクロホンの校正方法としては、それまでレーレー板が唯一の方法であったが水中では利用できないことから、相互校正法を水中のマイクロホンに適用してみたわけである。

  (注:“Physics‐Today”April,1998の最近号にEinstein,eisenberg,Dirac,Bohr,Mme Curie等とともにLangevinがthe Fifth Solvay Congress(1927)に出席したときの記念写 真が掲載されている。)

窮余の戦略
  昭和19年になって輸送船等に対する敵の魚雷襲撃を防ぐため、事前に察知してこれを爆破する魚雷を開発することが指令された。これには魚雷の発生音を探知して、その音源に向かってこちらから魚雷を発射することが考えられる。そこで先ず魚雷の発生音の録音をすることになった。瀬戸内海の光市の海上で、魚雷を発射してその推進音の録音をしたが、当時はアルミの金属盤に録音したので、再生音は原音とは全く異なっていた。この頃になると、新しい着想があったら何でも申し出るようにというような軍のおふれがでるようになり、魚雷と並行して次はロケットに拡声装置を載せて敵陣の後方まで運んで落下し、放送によって敵を撹乱しようという構想が示された。音響の担当として我々に与えられた任務は、まず増幅器をロケットで運び、小型パラシュートで高度約500mから落下して、真空管はじめ電子回路が無事に着地するかどうかを確かめて欲しいということであった。

  試験は、静岡の伊良子射場まで出かけて実施することになった。ロケットは直径30cm長さが2mほどで、有線放送として計画されたので、地上に置かれたドラムに巻いた電線を引出し、これを引きずって1〜2km飛翔させる計画で、最初の試験のとき、発射したロケットが電線を引きずったまま、90度方向を変えて見学していた我々の方へ向かってきたときには肝を冷やした。これは終戦の前年のことで、米軍が上陸してきた時にでも使用されるのかとも考えられ、いよいよ敗戦が濃厚になった証拠とも思われた。軍隊の内部でも戦況はいよいよ難しくなったとささやかれていた頃である。ついで、昭和20年には、3月に東京下町の大空襲、ついで5月25日夜には山手地域に対する空襲があり、大久保地区にも多くの焼夷弾が落下した。このときは丁度宿直にあたっていて、焼夷弾とともに爆弾が20メートル位 の至近距離で裂烈したが、運よく無事であった。

音響機雷の投下
 このような状況から疎開をかねて伊豆の伊東実験所に移って、海中の実験を続けることになった。最初は旅館住まいをしていたが、後に宇佐美にあった一高の寮を借りて移り、ここから伊東へ通 ったのもほぼ一月たらずであった。というのはそのころ瀬戸内海に磁気機雷の他に音響機雷、水圧機雷が投下されたという情報で、急遽広島に出張することになった。たまたま陸上に投下された機雷について調べた結果 によると、水圧機雷は船舶が航行するときに生ずる水圧の変化に対して作動する新型で、音響機雷も新しく開発されたもので、大型の船舶が近づいてきたときに、その推進音の変化(エンベロープ)を察知して爆発するが、小型の船の音や爆薬等の衝撃音に対しては作動しないという厄介な兵器であった。またこの機雷には8回路のリレーが付属していて、信号を感知してもすぐには爆発せず、8回のうちのいずれかにセットできるようになっていた。このような場合何回目にセットされるかについての確率を計算することも命じられたが、確率をどのように算出しようかと思案している内に、急遽中国方面 に出張して現物の調査と対策の検討をすることになった。

広島における原爆の体験
 広島では最初市の西部、己斐の旅館にいたが、当時多くの国内の都市が爆撃を受けていて、広島もそれまでは無事であったが、いよいよ危険であるということから、広島から西十キロにある廿日市の小学校を借りて、ここをベースにして音響機雷の対策をたてることになった。これが8月の始めである。ここで8月6日の原爆投下の日を迎えることになるが、その詳細は小林理研ニュース「晴天のショックウェーブ」3)を参照していただきたい。ここでショックウェーブという表題をつけたのは、小学校の教室の中で一瞬の閃光に驚いて早速廊下に出て屋外をみたとき、真っ青な上空を爆発の煙の立ち上がっている広島方向から、こちらに向かって白い円弧 になった衝撃波が次第に近付いてきて、丁度真上を通過したと思われる瞬間に、校舎の全ての窓ガラスを薙ぎ倒して通 り過ぎたことからこのような表題にしたものである。

 さて、原爆が投下された二日後の8月8日に仁科先生のお供をして爆心地近くをご案内したことはすでにニュースで紹介したが、その翌日、またも長崎が原爆の攻撃を受け、それとほぼ同時にソ連も参戦したという報道があって、それから終戦までの一週間、何をしてどのような心境で過ごしたのか全く記憶に残っていない。ただ、8月14日になって、翌日正午に天皇のお言葉が放送されるということがわかり、仲間内ではきっと苦難を乗り越えて頑張るようにと、激励される放送に違いないと話していた。しかし、その日の夜になってみると、それまで連日あった空襲警報が全く跡絶えたので、民家に一緒に寄宿していた軍医の富田氏(後に慶応医学部教授)とひょっとすると戦争も終りかもしれないと話しあった記憶がある。

終戦の思いで
 8月15日の玉音放送は、どういうわけか雑音がひどく聞きとりにくかったが、とにかく戦争を終結させることにしたというご言葉であることは分かり、気がぬ けたようなまた一方ではホッとしたような、いわば放心状態に近かった。

 とりあえず、荷物を片付けて引き上げることになり、幸い鉄道はなんとか運行していたので、貨物列車に乗り継ぎ家族が疎開していた岐阜にたどりついたのは20日頃であった。そこで終戦後も時々飛んでくる米軍機をうらめしそうにながめていた数日後、陸軍の技術本部から呼び出しがあった。何事かと上京して、河田町にあった技術本部に出頭してみると、顔見知りの技術将校も数人呼び出されていた。そのうち胸に特別 な記章をつけた参謀と思われる将校から、これから敵は上陸してくるが、将来に備えてお前等(上官の使う軍隊語)はしばらく隠れて待機しているようにと指示があり、これは当分の資金にするようにと金一封が渡された。話しはそれだけで終り早々に解散になった。後で袋を開けてみるとそれまでお目にかかったこともない200円札が数枚はいっていて、これはやばいと思ったものの、引き返して返すわけにもゆかずそのまま退散した。しかし、その後呼び出されることもなく、ただ儲けのようなことになったが、戦後のインフレと戦前使われていた旧円の凍結等もあって、闇米をいくらか購入したくらいで、あまりご利やくがあったような覚えはない。

(注:そのころの主要通貨の紙幣は、1円、5円、10円、100円で、10円札一枚でも現在の数万円の価値があった。100円札はデパートに行かないと、普通の店ではお釣が貰えないといわれていた。また私の初任給は70円、中尉の月給は90円)

 以上が学校を卒業してほぼ5年間における、終戦までに経験した主に音に関する雑学とそれにまつわる記録である。

  戦後は、以前嘱託として勤めていた航空研究所が、GHQの指令で閉鎖になったので、小林理研にお世話になることに決まり、改めて音響に入門することになった。

(1) An X‐ray Study of the Longitudinal Vibration of Y-cut Piezoelectric Qualtz Plates.
      日本数学物理学会六月常会講演(1941)
(2) 熱歪による硝子の割れ目
      応用物理10巻8号(1941)pp. 351−354
(3)  晴天のショックウェーブ
      小林理研ニュースNo.21(1988)

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