1990/4
No.28
1. 創立50周年を迎えて 2. 標準周波数レコード盤 3. ACFTD校正液について 4. 音響測定器に関する規格の動向
       
 創立50周年を迎えて

理事長 五 十 嵐 寿 一

1. まえがき
 小林理学研究所は今年で創立50年を迎える。
 昭和15年、戦雲急を告げる時代に基礎物理の発展を期して発足した研究所が、戦後の混乱期を乗り越えて今日まで50年の変遷を経過したことは奇跡といっても過言ではない。創立の翌年には太平洋戦争に突入し、戦時研究に駆り立てられながら地道に基礎研究をつづけた記録が残っており、談話会も毎週継続されていた。戦後のとくに財政的に困難な時期に先輩方々のご苦労は大変なものであった。しかし、このような状況の中で、数々の研究成果が学会誌等に発表されていると共に、多くの若手研究者の育成が行われて、戦後設立された新制大学や研究機関に転出し業績を挙げた人も多い。物理の基礎研究は50年の歴史の半ばにあたる昭和40年頃まで行われたが、それ以後は創立の当初から継続していた音響の研究の比重が次第に大きくなってきた。特にここ20数年においては、音響・振動に関する環境問題に焦点をあてた研究が主力になって現在にいたっている。ここに50年前の創立の頃からの歴史についてその概要を紹介する。

2. 研究所の設立
 当研究所の創立者、小林采男は昭和の初期、亡父の遺業を継いで朝鮮におけるタングステン鉱山の経営に当たっていたが、年来の夢として「日本が将来大きく発展するためには物理の研究所をつくり、生物物理(現在のライフサイエンス)までを含む基礎研究を進める必要がある」と考えていた。たまたま同僚の佐藤格氏の実弟佐藤孝二(当時東京大学助教授、航空研究所所員)と知り合う機会があり研究所設立について協力を求めた。これが昭和12年頃のことである。佐藤は音響に関する基礎研究の発展に意欲を持っていた時で、東大物理学教室の寺沢寛一、西川正治両教授に相談のうえ、坂井卓三教授の全面的協力を得て研究所設立の準備を進めることになった。このことが小林とともに佐藤が小林理学研究所の創立者といわれる所以である。昭和13年には西川教授門下の三宅静雄、また翌年には理論物理学の大阪大学助教授岡小天を迎えて小林鉱業東京出張所(丸ビル内)に研究所設立準備室が開設された。一方、研究所建設のための土地として、現在の国分寺の地に決定したのが昭和14年の夏である。当時この土地は国分寺駅の北口から中央線の陸橋を渡って国立に通じる5間道路に面していたが、道路の両側は松や櫟の雑木林が連なって人家も疎らな武蔵野の一部であった。途中の野川を越える辺りの低地は一面の田圃で、北には中央線の土手を望み南には別荘風の旧家が点在していた。当研究所が戦時中最後の財団法人として文部省から認可されたのが昭和15年8月24日で、建物が完成して研究所がスタートしたのは同年12月である。

3. 戦時中の研究所
 当初、研究所本館は木造の二階建で、図書室には岡が収集した1920年以降の内外のバックナンバー75種類が備えられた。佐藤は研究所全般の管理運営にあたったが、陸軍の嘱託として数々の委託研究を担当するとともに、研究所の建設、資材調達について軍より多くの便宜をうけることができた。これらの軍からの委託研究は佐藤が主として担当し、他の所員は基礎研究に没頭することでスタートしたが、戦況の激化と共に研究者全員がなんらかの戦時研究を担当する状況に立ち至った。
 設立当初の研究室は次の構成であった。

(1) 物質構造の理論的研究 岡研究室
(2) X線及び陰極線による結晶並びに金属組織の研究 三宅研究室
(3) 超音波に関する研究 能本研究室
(4) 水中音響の研究 佐藤・小橋研究室
(5) ロッセル塩の圧電気に関する研究 河合研究室

 佐藤は音響の研究を主題にしていたが、欧米を視察した際、米国Brusc社等においてロッセル塩結晶の圧電性を利用したクリスタル製品が生産されていることに注目し、音のセンサーとしてわが国でもその実用化の研究を推進することになった。河合は日本光学_鰍ゥら新設の当研究所に入所し、ロッセル塩単結晶の作成に従事していたが、軍が水中兵器のセンサーとしてこれに着目したことからその工業化が急がれることになった。ついで軍からの要請もあって昭和19年には別会社小林理研製作所を設立して生産は会社の方に移すことになった。これが現在のリオン_鰍フ前身で、現在も密接な関係を保っている。岡は主として高分子の研究を進め、粘弾性、レオロジーに関する理論的研究からさらに高分子の誘電体論の方向に発展させた。当時わが国では高分子に関する物理的研究は殆ど行われておらず、岡はその草分けで小林理研が高分子物理発祥の地といってもよい。三宅は結晶構造等をX線解析によって研究していたが、国分寺に移ってからは電子線回折を用いることも試み、これらは後にわが国における電子線結晶光学の研究が盛んになった機運をつくることに貢献した。能本は超音波による光の回折の研究及び超音波を作用させたときの物性研究を行いこの分野における先駆的業績をあげている。

4. 戦後の苦難の時代
 昭和20年8月、ほぼ4年にわたる戦争が終結したが、それまで財源であった小林鉱業が解散したため研究所運営の資金源を失うことになった。しかし当初はそれまでの資金の蓄積と軍の仕事に伴う資材を処分することで何とか運営を継続することができた。当時、多くの大学や研究機関は疎開したり戦災を受けたりしてしばらく研究は中断していたことを思えば、戦中戦後を通じて研究を継続することができたことはまことに好運で、関係する学会に大きな影響を与えた。特に戦時中から続いていた物理談話会は終戦後も毎週開催され、都内の大学、研究所から多いときには20〜30人の研究者が討論に参加し、戦後の一時期、国分寺が物理研究の中心になった感があった。その後当研究所の経営はますます困難の度を加えたが、これは全国の民間研究所どこも同様で、互いに連絡をとって民間研究機関懇談会を結成し(会長仁科芳雄)各方面に陳情を行った結果、財団法人に対する政府の補助金を獲得することに成功した。従って戦後の長い期間、これらの補助金と小林理研製作所からの特許料等に支えられて地道な基礎研究を継続することができた。理論物理の分野においては、ゴムや合成高分子からタンパク質、酵素、ヴィールス、遺伝子などの生物現象の解明について多くの論文が発表された。また文理科大学の朝永振一郎教授(後のノーベル賞授賞者)も非常勤で研究室を主宰することになり、助手とともに昭和26年から39年まで在籍し素粒子論の研究を行っている。さらに昭和28年には押田勇雄が名古屋大学から入所して物性研究室を発足させ、有機色素の光化学反応、分子間の相互作用等について量子力学、物性論的に研究を進めている。三宅研究室は、昭和24年、新制大学が発足した際に全員が東京工業大学に転出したため、研究室は理事である西川東大名誉教授が主宰することになったが、後に西川教授の死去により荻原仁に引き継がれた。河合はロッセル塩結晶の育成に続いて深田等とともに高周波領域の誘電率、誘電損失について、また木材、繊維類等の固体高分子の粘弾性については振動による共振法を使って研究を行なった。
 このように基礎物理のきわめて広い分野において数々の研究が進められた結果、各種の学会に多くの論文が投稿され物理学の発展に寄与したが、一方、有能な若手の研究者を多数養成し新制大学や研究機関に転出して業績を挙げた例も多い。このほか昭和30年代には一時期磁性材料や化学の研究室が設置されたこともあった。昭和40年頃になると、大学等における基礎研究が充実したことと、これらの研究に対する国からの民間に対する補助金が減少したこともあって、以上の研究室における多くの研究者が外部に転出することになり、50年の歴史の約半分にあたる後半の25年については、音響学を中心とした研究所として運営されている。

5. 音響研究の経緯
 (1)超音波の研究 : 超音波の研究室は能本が主宰し、昭和24年東京農工大学に転出した後も兼任として在籍し、昭和40年頃まで多くの業績をあげるとともに研究者を育成した。研究の内容は主として超音波による物性と超音波の吸収分散といった物理的現象に関するもので、この分野の先駆的研究として学会への貢献は極めて大きい。

 (2)圧電材料 : 戦時中から続いた圧電材料の研究の成果は、戦後、ロッセル塩結晶として小林理研製作所においてマイクロホン、ピックアップ等として生産され、さらに人工水晶の育成の研究も行われたが実用化に至らなかったのは残念なことであった。河合は高分子にも圧電性があることを発見し、これは薄膜状の圧電センサーとして実用化されている。次いでこの研究室では圧電セラミックの研究に移り、丸竹等によってチタン酸バリウム磁器等の新素材の開発が行われた。これらは振動ピックアップの素子、圧電着火素子としてリオン(株)において製品化されている。また最近、透明な圧電セラミックの開発にも成功した。

 (3)音響機器の研究 : 戦時中からロッセル塩を利用した水中マイクロホンの研究が行われたが、後にはロッセル塩を圧電素子とした音響機器(騒音計、補聴器、オーディオメーター)等の開発研究が小橋等によって推進された。現在も各種音響計測器の開発研究を実施してリオン(株)に対する技術協力も行っている。

 (4)建築音響の研究 : 昭和20年代は戦後の復興の時期で、多くの建物が建設されとくに音楽ホール等の設計について吸音、遮音性の材料が要求された。研究所で吸音率測定用の残響室が建設されたのが昭和30年頃で、子安等の設計による不整形の残響室はその後建設された国内の残響室の原型になっている。この残響室は同じ頃建設された遮音測定室とともに現在も音響材料の開発研究に利用されるとともに、材料の吸音率、透過損失の委託測定によって研究所運営の財源となっている。

 (5)騒音の研究:騒音問題は戦後の復興の時期からの長い間の課題であったが、昭和35年頃から進められた高速道路、新幹線、空港等の建設によってとくに顕在化するにいたった。この頃科学技術庁から騒音対策の研究費として補助金が交付されたことは、今日当研究所の研究プロジェクトがこの方面に集中している契機となった。さらに昭和40年代の騒音に係る環境基準の設定に関連して、環境騒音の測定・評価と対策などの諸問題が提起されたことは、これらが引き続いて外部からの委託研究となっており、現在も当研究所における主要な研究プロジェクトである。特に山下等によって進められた模型を使った音響伝搬の研究は、専用の模型実験室も完成して現在環境騒音の予測手法として活用されている。

 (6)振動・超低周波音の研究:騒音とともに振動の研究は圧電材料の研究室で開発された圧電材料に負うところが多い。圧電セラミックを使った振動ピックアップ、振動計測器の開発が昭和30年代に行われたが、その後振動が騒音と同じく公害問題として取り上げられることになって、道路振動、建屋の振動の解析に関する研究とともに振動工具による人体への影響等についての研究が時田等によって行われている。また超低周波音についても昭和50年頃より研究が進められ、専用の実験室を使った低周波音の評価方法及び低周波音による建具、窓等のガタツキに関する研究も当研究所の特色の一つである。

 (7)母と子の教室:昭和42年、聴覚障害をもつ乳幼児の補聴訓練を目的として「母と子の教室」が設置されたが、金山室長を中心として外部の医学関係者等の協力を得て多数の幼児の補聴教育を実施するとともに、両親講座を設けて難聴児教育を進めてきた。教室開設以来20年を経過して卒業生の中には、普通の小学校に入学して大学課程を終了し社会で活躍している例も多い。この施設は音響の研究所としては世界にも例がなく、独特な教育方法として大きな評価をえている。

6. あとがき
 今年研究所創立50周年を迎えるにあたって、設立以来の経過についてその概要を紹介したが、これまで本誌を通じて最近の研究所については詳しく述べられているので、主として前半の基礎物理の研究に重点をおいて記述したことをお断りしておく。
 尚、この稿を終わるに当たり、当研究所に対する関係各位の日頃のご支援ご鞭撻に対して厚くお礼申し上げる次第である。

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