2006/7
No.92
1. 五十嵐 寿一先生の思い出

2. 河合平司先生を偲ぶ

3. スキャニング法による音響パワーレベル測定 4. 骨 の 笛 5. 第26回ピエゾサロン 6. 耳管機能検査装置 JK-05
   
 五十嵐 寿一先生の思い出

        

監 事 時 田 保 夫

 正月3日の早朝に頂いた五十嵐先生の訃報には本当に愕然としました。昨年の12月19日にスイスから熊本大学に来ておられるDr. Katja Wirthの講演会が小林理学研究所で行われたときに、核心を突いた質問をいつもの流暢な英語でなされた様子は、まったく体調の衰えを感じさせないものでした。年末の30日に、mail仲間にこれから掃除だとメールを出された後、不調を訴えられて救急車で入院されたそうで、最後まで現役であった先生の見事さには本当に頭が下がります。ここでは既に周知の先生の業績というより私の個人的な繋がりにおける思い出になりますが、紙面を割かせて頂きます。

 私が先生と初めてお会いしたのは、今から50年以上前のことですからはっきりとは覚えていないのですが、昭和25年の5月頃だったのではないかと思います。私が小林理学研究所に入所したのがこの年です。研究所の理事長兼所長だった佐藤孝二先生は駒場の東大理工学研究所の教授でおられ、助教授が五十嵐先生でした。入所が私と一緒だった子安 勝さんが、五十嵐先生の研究室に行かれて音響の研究に従事されました。佐藤先生は理工研と小林理研、さらに東大生産研究所の互いの研究交流を考えられて、月に一回、音響談話会と称して、佐藤研究室、五十嵐研究室とともに、小林理研からは物性の河合平司先生の研究室、超音波の能本乙彦先生の研究室、音響学の小橋 豊先生の研究室、東大生研からは超音波の鳥飼安生先生の研究室の人々が駒場の14号館会議室に参集して、それぞれ各自の課題研究の進展具合や、勉強した文献の紹介などの討論をしていました。したがって五十嵐先生とはこの席で一緒に勉強をさせて頂いたのが始まりです。

 また、日本音響学会の会長になられた佐藤先生が、休刊中の音響学会誌の復刊を考えられたのがこの頃で、栗原嘉名芽先生を編集委員長として、幹事役を小橋先生がやり、業務は専ら理工研の佐藤研であったので、小橋先生と共にしょっちゅう理工研に行っては、実務を受け持たれていた五十嵐先生とも仕事をさせて頂きました。

 日本音響学会が東京都からの委託を受けて都市騒音の実態調査を行ったときには、東芝研究所の守田 栄先生を騒音研究部会長として、都内の騒音計を有する大学、研究機関や民間業者が総出で参加し、理工研からは五十嵐先生はじめ、松浦さん、荒井さん、子安さん等、小林理学研究所からは小橋先生をはじめ藤村、織田、細谷の諸君などと一緒に終夜の測定を実施したのを懐かしく思い出します。そのとき以来終生騒音とかかわるとは思いもよりませんでした。

 先生は早くから産学協同研究の形で、自動車の騒音問題に取り組まれて、会社の研究を研究生とともに引き受けられましたが、ご自分も消音器の研究で学位を取られております。先生はそのため早くから車の運転をされるようになりまして、生活に汲々としていた我々にとっては、格段の上流社会の生活だななどと思ったものでしたが、今から考えると日本の産業復興の先駆者的なところにおられたということではないでしょうか。当時理工研にはロケットで有名な糸川先生もすぐそばの部屋におられて、理工研そのものが世界の先端技術を貪欲に吸収するところだったのかも知れません。

 もともと理工研は、かつての東京大学航空研究所で、第二次世界大戦前に無着陸長距離飛行の世界記録を作った航研機を世に送り出したところですし、戦前、戦中を通して航空機の騒音に関する研究は佐藤先生の研究の主題目だったので、戦後航空機関係の研究が禁止になってからも、音に関する研究は続けられていたわけです。航空機騒音の問題は、戦後の基地周辺の環境騒音という形で取り上げられるようになりました。基地周辺の学校における騒音被害を減少するために行った実態調査から、我々も五十嵐研究室の方々と共に基地騒音の測定に参加して出かけたものでした。これが私の航空機騒音に関係し始めた最初でした。

 その後日本が高度成長するにしたがって、戦後の豊かさと引き換えに蔓延し始めた公害問題の中の騒音問題についての研究が本格化するに従い、日常生活と直接かかわりのある音響の専門家として、先生が行政にかかわることになるのは避けられません。当時公害を扱っていた厚生省とのかかわりを持つようになり、次いで環境庁が出来てからは環境審議会の委員として、また騒音・振動部会長としての活動が大きな仕事になりました。中でも航空機騒音の環境基準を世界に先駆けて設定し、WECPNLを行政に使うようにしたのは、その後の航空機騒音に対する日本の環境行政における大きな貢献だったと思います。問題があるからというのではなく、速やかに行う行政指導というのがいかに環境問題を行う上で必要なことなのかを実証した大きな業績といえるのではないでしょうか。現在Leqを用いて環境問題を考えるようになってきましたが、早くからエネルギーに着目し、行政が環境量を予測が出来るように考えるようにした先鞭をつけたものといえます。

 理工研では昭和20年代に既に自動車と同じように、庶民からかけ離れていたと思われたゴルフを、所員がグランドにネットを張って練習し始めていたのも、当時の先端を行っていたことの証明ではないでしょうか。もともと運動には自信がおありだった先生ですから、先生がゴルフを始められたのは本当に早い時期だったのでしょう。後に私もゴルフの仲間に入れて頂いてご一緒したときの、あの独特のスタイルで打たれるドライバーの素晴らしさには驚いたものでした。小林理研でもゴルフを楽しむ連中が増えて、先生から五十嵐杯を提供いただき、所員の親睦と健康維持増進にどれほど貢献されたか知れません。

 先生は第一高等学校時代に陸上競技部に所属されていて、十種競技だったと思うのですが、戦後も長い間破られなかった記録を持っていらっしゃったと聞いております。その当時の陸上競技部のマネージャーが昭和26年から40年まで小林理研で物性理論物理の研究室を主宰されていた押田勇雄先生だったということも、後で先生からお話を聞いて驚きました。押田先生はほとんど運動はなされなかったのですから。何年頃だったか、リオンの創立記念の運動会があったときに小林理研も一緒に参加をして行事を楽しんだのですが、最後を締めくくるリレー競技の最終ランナーで先生が走り、たぶん先生は50歳を過ぎていたと思うのですが、他の皆と違った本格的なバネの効いた走り方でぐんぐん飛ばし、その素晴らしさに観客が唖然としていたのを覚えております。

 4年ごとに開かれる国際音響学会議の第6回が1968年に文部省の隣にあった教育会館を使って開催することが決まってから、実吉組織委員長、粟屋実行委員長を助けて実質事務局を動かしたのが総幹事の五十嵐先生でした。日本で初めての音響に関する国際会議というので、音響学会の総力を挙げて準備に取り掛かりました。会議は海外から著名な先生方も多く参加され、参加者868名で成功裡に終わりましたが、先生の司会や閉会の挨拶などは、本当に先生の英語の実力を示したものといって良いのではなかったでしょうか。戦後の復興にやっと一段落をつけ、豊かになってきた日本から国際的な会議への参加者が増えていった先鞭をつけられたのがこの会議だったのではないかと思っています。

 その後ICAOの会議で日本代表の専門家としての航空機騒音に関する国際会議への出席、日米音響学会ジョイントミーティング、inter-noiseなど、ご一緒の機会がしばしばありましたが、常に学者としての先生は諸外国の方々とにこやかに歓談をされ、時には鋭い質問をされるなど、本当に日本を代表する騒音の専門の先生でした。

 私事になりますが、私が初めて英文の論文を学会誌に出したときには、先生に細かいところまで英語の添削をして頂いて、本当に親身のご指導を受けることが出来ました。また昨年度まで卒業研究で来ている学生に英語の論文を指導して読ませていたのには、若い人への教育という気持ちはいつまでも変わらないなと敬服いたしました。先生はごく最近まで、研究所の人たちの英文原稿に目を通され、いろいろとご指導くださっていたことは、本当に皆感謝をしているところです。

研究生たちと(2005年10月)

 先生とゆっくりお話しをするようになったのは、前理事長佐藤先生が亡くなられて、理事長職を東大教授の現職でお継ぎになった後、定年で小林理研に来られ、毎日お顔をあわせるようになってからです。所内理事という立場で、五十嵐先生を中心に所長の子安さんと三人でいろいろと難しい財政的な問題点の検討や、難聴幼児教育の「母と子の教室」の移転問題など、当時の研究所経営に関することは、素人というか武士の商法というか、なかなか核心に触れる討議は難しい状況でした。銀行から出向で来た事務室長はさすがに財政的なことには鋭かったのですが、多分に悲観的な発言が多かったので、我々との意見の違いはよくありました。

 その後子安さんの突然の退任で、いきなり私が所長を引き受けろと言われた時には、本当に青天の霹靂という感じでした。それまでも財団法人という立場の経営が、主管官庁の文部省でも色々と朝令暮改的に変化をしていた時期でしたから、その意味や対応などを検討する知識は持ち合わせず、頭を悩ませた記憶があります。「母と子の教室」の移転問題もその頃のことで、現在地の早稲田まで先生と一緒に何度も行って検討をしたのも懐かしい思い出です。

 当時先生はぽつりと「財団法人というのは何時までも続ける必要があるのかな」と言われたことがあるのですが、財政的にも相当にご苦労をされているのが分かっていましたから、返答に詰まってしまった覚えがあります。続けるということが如何に大変なことなのか、歴史が持つ重さというのが如何に大切なものなのかも考えさせられる時期でした。先生が苦心をされたのがひしひしと身にしみたことでした。現在は、当時の状況とはまた別の意味で大変な時でしょうが、是非先生のご遺志に沿って研究所の継続発展を祈る次第です。

 私が羽田の航空環境研究センターに移ってからも、週に一度くらいは研究所に来ておりまして、最近も週に一度くらいしかご一緒できなかったのですが、国分寺でいささか有名な蕎麦屋「一乃屋」へ所長ともども4〜5人で行って一緒に昼食を頂き、その後駅前の店でコーヒーを飲んで1時迄には研究所まで歩いて帰るのがお決まりのコースになりました。その時もいろいろな話題が出て愉しい昼の時間でした。まじめな音響の話が先生から出されて、びっくりすることもありましたが、マスコミを騒がす時事的なことも結構多く、愉しい時間を持つことが出来たのはすごく良い思い出となっています。

 また3時のお茶の時間には先生の部屋に伺って、昔の話や時事問題なども多くありましたが、今は亡くなられた石井 泰先生も来られた時には一緒にお茶を飲みながら、石井先生得意の江戸小話や落語の話などで盛り上がったものでした。五十嵐先生は仕事の話ばかりではなく色々な広い知識をお持ちで、人を飽きさせない話題を次々と出されるし、人の話に合わせて愉しい時間を過ごすことが出来たのも大きな思い出の一つです。

 この文章を書いているうちに、河合平司先生の訃報を頂いて驚いています。段々昔の小林理研を知っている方々がおられなくなってしまって寂しい限りですが、かつての先輩たちの業績を受け継いでいる我々としてはご冥福を祈りながら、ますますの発展を誓わなければと思う次第です。

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