1993/10
No.421. 文化会館ホールと騒音 2. 閑話九題 3. 骨董品展示室の開設 4. ドライプロセス用
パーティクルカウンタ
閑話九題
騒音振動第三研究室 室長 加 来 治 郎
(1)白滝
鍾乳洞で有名な日原川は、東京、埼玉、山梨の県境に位置する標高2018mの雲取山の東斜面に源を発する。いくつもの沢の水を集めた水量は四季を通じて豊かで、石灰岩質の奥多摩の山塊に鋭いV字峡を作っている。この川の上流に白滝と呼ばれる魚止めの滝がある。岩肌はさして白くもなく白泡と水しぶきの作る白い世界によって白滝と呼ばれるのであろうか。滝の落差は10m余りではあるが、豊かな水流は轟音と水しぶきをあげて巨大な釜にたぎり落ちている。とりわけ、ドォッーという地響きにも似た轟音は切り立ったV字谷の中に響き渡り、まさに近づく者を威嚇している。滝の前に立つと、その偉容に圧倒され、心細くさえ思えてくる。
自然の造型に感嘆しながらも、渡渉、ヘズリ、高巻きといったここに至るまでの難渋を思いだし、釜の中に潜んでいるはずの大ヤマメ(山女魚)を狙ってそっと竿を出す。第一投目から全神経は糸に付けられた目印の動きに集中し、停止、横走り、糸ふけ、食い込みといった魚の当たりをじっと待つ。この時ばかりは滝の音はほとんど聞こえていない。
二投、三投と竿を振り込んではみるが、ちびヤマメの当たりはあっても狙う大物はなかなか現れず、しだいに諦めの気運が高まる。不思議なもので、目印への集中心が薄れるにつれて、それまで忘れていた滝の音がだんだんと大きくなり、竿を畳む段に至っては一刻も早くこの場を逃げ出したくなる。一時とはいえ滝の轟音さえ消してしまう小 さな目印は、人の聴覚機能にどのように働いたのであろうか。
(2)名人
渓流釣りのブームであろうか、最近の奥多摩はどの川も魚の数より釣り人の数の方が多いほどである。大勢の釣人に攻められるため、もともと警戒心の強い山女魚や岩魚は益々臆病になり、一筋縄では行かないいわゆるすれっからしの魚になっている。2年、3年と生き抜いた彼女(彼)等は、いきなり餌に飛び付いたりはしない。流れに乗った餌だけをそっとくわえ、異常のないのを十分確めた上でおもむろに飲み込む。糸のテンションを感じるとたちまちと吐き出してしまうため、くわえてから吐き出すまでのわずかな時間が勝負となる。
私に渓流釣りを教えてくれた名人は、身をかがめ、足音を忍ばせ、それこそ忍者のごとく魚のいるポイントに近づく。もちろん話し声もご法度で、"そんな大きな声を出したら、魚が逃げてしまうよ"と初めの頃はよく注意された。…水の中を伝わる音は魚に聞こえても、空気と水のインピーダンスの違いから話し声のような空気伝搬音は99%以上水面で反射して水の中には入っていかない…というような理屈の通る世界ではない。名人と私の間の釣果に大きな差がある以上、彼の言が真である。
以来、二人で釣りをする場合は、休憩の時以外はほとんど口を交わさず、黙々と竿を出しながら川を上っていく。まさしく、渓流釣りは無言の行といえる
(3)名人その2
衛星放送によって囲碁や将棋のタイトル戦が生放送されるようになり、対局場のピーンと張り詰めた雰囲気を茶の間で味うことができる。一時間、ときには二時間近くも読みに没頭する高段者の姿には、プロの厳しさと尋常ならざる頭脳構造を思い浮かべてしまう。現在の囲碁と将棋の名人は、小林光一、米長邦雄の両九段である。純粋な小林名人、爽やかな米長名人と人柄の印象は異なるが、碁石や駒を盤に打つ様には両者とも名人の貫禄が溢れている。これが絶対の一着だといわんばかりにパシッと打たれると、その石音や駒音を聞いただけで相手は気合い負けをしてしまう。
囲碁、将棋ともに人差し指と中指で石や駒を挟んで打つが、出てくる音はかなり異なる。囲碁は碁盤によって、将棋は駒によって音色が決まるようで、本カヤの碁盤ではカンと軽やかに響く音がし、本ツゲの駒ではカシッと堅くしまった音がする。いずれにしろ、それなりの音を発して打つことができれば有段者といわれている。碁や将棋の覚えたての頃、定石の本を読むのはそっちのけで碁石や 盤に向かってパチンパチンと打つ練習をした。どちらの棋力も今一つではあるが、練習のお陰で碁石や駒を打つ様だけは高段者並みと自負している。
ところで、将棋の世界で現在最強の棋士といわれる羽生竜王であるが、盤から剥がすように駒を摘み挙げてパチッと打つ様は余り迫力がない。加藤一二三九段のように100kg近い体重を乗せてバシッと打ち付けるのは駒が割れぬかと心配になるが、タイトルに相応しい手つきと音は必要ではあろう。
(4)白球
草野球の世界ではすっかり金属バットが主流になっている。木製バットに比べて値は張るが、少々詰まってもボールが飛ぶこと、決して析れないことなどが普及の原因である。いくら草野球とはいえ、四十も半ばを過ぎると一人で7回を投げ抜くのはしんどい。よくて5回、七月、八月の炎天下では3回を過ぎると"誰か代わってくれえー"と悲鳴にも似た叫び声が出る。ようやく御役御免となっても、9人揃えるのが大変な我がチームではべンチで休むわけにもいかず、たいていは外野、それもライトの守りに付く。プロ野球の選手は外野フライをいとも簡単に処理してしまうが、我々にはフライ一つが結構難しい。普通は、ピッチャーの投げたボールのコース、バッターのスウィングの形と速さ、ボールの上がった方向と角度、それにボールがバットに当たった時の音等をとっさに判断して球の行方を追う。木製バットの時代は打球の音が飛距離についての重要な情報源であり、バットの芯にボールが当たったかどうかはその音によって判断できた。ところが金層バットになってからは、誰が打っても、バットのどこに当たっても一様に"カーン"という金属音がする。
貴重な情報源の一つを失ってからは、音にだまされて目の前にボールをぽとりと落としたり、思いの外の打球の伸びに万歳をすることが多くなってしまった。
(5)メタルヘッド
ゴルフの世界もメタルヘッドが全盛である。曲がらず、よく飛ぶ、ということであの青木プロまでが愛用するようになった。一見よいことずくめのメタルではあるが、ボールを叩いた時の、"カキーン"という音だけはどうにかしてほしい。とりわけツーピースボールとの組み合わせでは一段とその鋭さが増大する。その音が嫌でメタルは使用していない。ゴルフの醍醐味は何と言っても思い切りひっぱたいたボールが澄み切った青空の中に吸い込まれていくあの爽快さにある。昔から、飛ばすことだけに生き甲斐を感じてきたが、最近の道具の進歩は歳による体力の衰えを補って余りがある。Y社の長尺ドライバーとD社の○○スペシヤルを使うようになってからは前より飛距離が増大し、入間C.C.のNo.11,12ホールでワンオンすることができた。ドライバーとボールで各10ヤードずつ、合わせて20ヤードの飛距離アップである。ただし、距離とともにあの"ファー"という声の回数も増したため、スコアーそのものはほとんど向上していない。
ところが、最近、練習場でTM社のメタルヘッドを友人から借りて打ってみると、自分のクラブより10ヤード以上は確実に飛ぶことが判った。距離だけでなく、慢性的なスライスや突発的なフックも解消されて打球の方向が安定する。まさしく、メタルは曲がらず、よく飛ぶ。
これならコンスタントに大台は切れそうであるが、身の程を考えればおいそれと買える代物ではない。メタルでは状況に応じてフェードやドローを打ち分けることが難しい、などと自分に言い聞かせながら指をくわえたままでいる。それはともかく、カキーンというメタルの音が前にもまして気になって仕方がない。
(6)ホルン
金管楽器でありながら木管楽器の範疇に入れられることのあるフレンチホルンは、柔らかく深みのある音色からオーケストラの華とも、縁の下の力持ちともいわれている。管の全長が約3.5mほどあり、倍音成分を豊富に含むことからこのような音色が生まれる。もちろん誰でもという分けではなく、長年にわたって安定かつ繊細に唇を振動させるための訓練を経てきた人のみが出し得る。百聞は一見に如かずではないが、是非ともペーター・ダムのホルンを聞いていただきたい。管が長いことは演奏の難しさにも繋がっており、音を外しやすいこと、音程をとりにくいことは他の楽器の比ではない。アマチュアのオーケストラに在籍していた頃、仲間から君の楽器はホルンではなくてプルンだとよく冷やかされた。最初の音のイメージがつかめず、恐る恐る音を探しながら空気を吹き込むためにかえって怪しい音が出る。練習を続けたものの、音感、リズム感ともに進歩の気配が一向になく、自分には才能がないものと諦めてしまった。親はかくのごとくであるが、子供の方はピアノの鍵盤を適当に押して出る和音の一音一音さえも当てることができる。長年やっていれば多少の訓練によって誰でも身に付くらしい。こと音楽に関しては幼児教育の大切さを痛感するとともに、自分の音感が遺伝しなかったことに感謝している。
(7)竹笛
SI単位の一つである長さは、1mをリプトン86原子の準位2P10と5d5との間での遷移に対応する光波の真空中での波長の1650763.73倍に等しい長さとする、と定義されている。その測定精度はほぼ10−8mである。長さ、容積、重さの度量衡については絶対的な標準がなく、昔からその基準は人為的に決定されてきた。古代の中国ではこの度量衡と音の調子を定めた音律とが密接な関係にあった。すなわち、十二音律の基準音を出す竹笛の長さを九寸と定めることで、長さに関する社会的な規範が維持されていた1)。基準音を黄鐘、竹笛を黄鐘笛というが、これは十二音律を定めた伝説上の名君である黄帝の名前に由来している。
長さの標準を音の高さ(周波数)と結び付けた点は興味深いが、笛から出る音が音速によっても変わるという点に若干の問題がある。音速は温度によって変化し、例えば30cm程度の笛の場合、夏と冬で温度差が20℃あるとき笛の長さに1cmほどの差を生じる。音楽家の絶対音感の能力を考えれば、誤差は5%程度になるかもしれない。
ところで、漢代の貴婦人の遺体とともに発掘された黄鐘笛の長さは17.65cmで、これを九寸とすると当時の一尺は19.61cmとなり、現在の一尺(約30cm)と比べるとかなり短い。当時の九寸と現代の九寸の笛の基本振動数を、管の一瑞が閉じられたものと仮定して計算すると、それぞれ480Hzと310Hz前後になる(開口端の補正は行っていない)。音程差としてはほぼ増五度に相当する。
時の為政者の都合によって長さの標準が変化したことは理解できるが、十二音律の高さがここまで変化するとは考えにくい。権力者の横暴に対して当時の音楽家達はどのように抵抗し、また、十二音律の基準音の高さを維持しようとしたのであろうか。機会を見付けて詳しく調べてみたい。
1)小泉袈裟勝著、単位もの知り帳
(8)ナイフ
源流の釣行ではナイフは必需品の一つである。薮こぎの際の蔓や笹の切り払いから、釣った魚の処理、料理の際の包丁代わり、串や箸の製作、焚きつけ木の切り出し、など何かと活躍する。それだけでなく、何が出てくるか分からない山奥では、ナイフを一本腰に下げておくだけで安心できる。ナイフの刃先(エッジ)は鋭利であればよいというものではなく、切る対象によってエッジの角度や研ぎ具合を変えなくてはならない。たとえば肉を切る場合は鋸の歯のような微小な凹凸がエッジに必要である。エッジを鋭くすると刃こぼれが起きやすく、切れ味と刃持ちという相反する性質を一本のナイフに持たせることが難しい。
刃物の切れ味は、指先に当たる微妙な感触で判断するが、物を切ったときに出る音の大きさによっても判定できる。一般に良く切れるナイフほど音は小さく、スパッというような音はしない。紙は切ったときの音が大きく、判定材料として都合がよい。コピー紙を例に取ると、剃刀の刃(最も鋭利な刃物)ではチーという音がし、カッターではヂーと少し大きな音がする。ビーというような音のするナイフはもう一度研ぎ直しである。
(9)CD
CD(コンパクトディスク)の出現によってアナログ式のレコード盤はすっかり衰退してしまった。ノイズが少ない、選曲が簡単、小型軽量、劣化がない、等々よいことずくめである。その音を初めて聞いた時、透き通った音質に日頃聞き慣れたスピーカのコーン紙が一皮むけたように感じた。ご多分に漏れず、それ以来、レコードとそのプレーヤーは押し入れに追いやられてしまった。CDが市場に現れ始めた頃、CDは20kHzから上の周波数がカットされているため音が良くないと指摘する音楽評論家がいた。確かにピアノや木琴のような衝撃成分を含む音の再生には20kz以上の音も必要ではあるが、そんな高い音など初めから出るはずのない自分のスピーカ(古色蒼然とした音を出すことで知られるTannoy)には関わりの薄いことと思ってきた。
ところが、最近の学全で恩師のK元教授と昼食をご一緒した際に、周波数を20kHzでカットしたものと40kHzまで延ばしたものとでは、君達が食べている料理の味ほどの違いがあるというお話しをうかがった。ちなみに私はミックスフライ、隣の友人はカツカレーである。七十を越えるお歳で今なおそれだけの聴力を維持されていることに驚くとともに、自分のオーディオ装置とCDそのものに少しばかり疑問を感じるようになった。
そういえば、スピーカの音から何か艶のようなものが失くなり、春の祭典の後半に出てくる大鼓の迫力がCDからは感じられないようにも思える。もう一度聞き比べをしてみたいと思ったが、レコードに関するものは全て去年粗大ゴミに出してしまった。後の祭りである。