2025/ 4
No.168
1. 巻頭言 2. ガイドラインに基づく個人ばく露測定による電動ドリル穴あけ作業音の評価 3. 騒音ばく露計 NB-14

 
  昭和に生きた小林采男


  理事長  山 本  貢 平

 数年前、小林理研とリオン(株)の創設者小林采男に関する問合せが何度かあった。残念ながらその時は語るに足る資料が無くて対応に窮した。その後、資料が少し集まって私も興味を持ったのでその人物像を探ってみた。

 小林采男は実業家小林藤右衛門の長男として明治27 年1月8日に奈良県宇智郡牧野村(現在の五條市)に生まれた。五條市は紀の川の上流にあり、北に金剛山、南西に弘法大師の高野山がある。また南北朝時代の正統とされる南朝は五條市の賀名生あのうに置かれたことがある。そんな土地柄、「采女」ならぬ「采男」という名は宮中の官職を思わせる。

 采男は中学時代「卒業後は僧侶になろう」と考えたが、その前に科学を極めようと一高で基礎物理学を学んだ。その後、東大の政治科を卒業し、農商務省の官僚を経て内閣資源局の事務官となった(1919 - 33)。この間、地質学を学び、鉱山労働を勉強して労働組合法の起案も行った。この時代、日本が戦争に向かって進む気配が強くなるが、自由・平等・平和を重んじる采男は陸軍の誤った方向を是正したいと考え始めていた(1975, 創業の心/講演)。

 昭和4年(1929)、1年間の欧米視察中、父藤右衛門が他界した。父の事業を継ぐため昭和8年(1933)に官職を辞し、朝鮮に渡って小林鉱業株式会社を設立した(1934)。この時代すでに満州事変が勃発(1931)しており、日本は戦争への道を歩み始めていた。折しも武器製造に欠かせないタングステンの需要が高まっていた。采男はこの時期タングステン鉱を豊富に産出する百年鉱山(平壌の東方)を取得し、ソウルに精錬工場を作って量産体制を整えた。その結果、小林鉱業(株)は莫大な利益を得ることになり采男は大実業家となった。しかし采男はこの利益を浄財と考え、その浄財を人への奉仕のために使った。これは信奉する弘法大師からの導き(啓示)だったと述べている(創業の心)。

 まず、京城鉱山専門学校(ソウル)を設立し、続いて春川農学校(江原道)、海州工業学校(黄海道)、城南中高校(ソウル)の設立と存続に尽力した。韓国の人からは「小林のように朝鮮半島で大きな富を得て、韓国の教育事業に巨額の私財を投じた日本人はいない」と高く評価された(1989, 大韓重石70 年史/韓国語の和訳)。

 一方、日本国内では日中戦争勃発(1937)から太平洋戦争に向かって、思想弾圧、自由喪失があり、国家存亡の憂いが発生していた。危機感を抱いた知識人たちは、将来の日本を担う人材を育成する教育機関「昭和塾」(1938 - 41)を立ち上げた。その運営に巨額の資金を提供したのが穏健な思想家でもある采男であった。活動期間は3年間ではあったが、国際的視野を持つ政治家や知識人を多数排出し、彼らは戦後の復興に尽力した(1991, 回想の昭和塾)。

 「昭和」は誤った戦争と国の荒廃を招いた苦難の時代であった。この時代に生きた采男は朝鮮で起業して巨額の富を得た。弘法大師の信奉者として「人を正しい方向に導く」という強い信念に基づき、学校の設立、教養塾の運営、理学研究所の創設という教育・研究事業に私財を投じた実業家、思想家、教育家が小林采男(1894 - 1979)である。

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