2013/4
No.1201. 巻頭言 2. 第25回中華民国音響学会学術研討会 3. カ ウ ベ ル 4. 光散乱式気中粒子計数器 KC-31/KC-32
<会議報告>
第25回中華民国音響学会学術研討会
所 長 山 本 貢 平
2012年11月14日(水)朝、いつもより太陽の光がまぶしい。リムジンバスの窓から、東京のシンボルであった東京タワーを見上げながら、そのシンボルも今や新しい東京スカイツリーに変わってしまったことに時代の趨勢を感じた。羽田空港に到着し、リオン(株)の安孫子さんと合流する。昼の便で台北の松山空港に飛んだ。
今回の出張は、台中で開かれる第25回中華民国音響学会研究発表会に参加し、講演をすることが目的であった。羽田からおよそ4時間で台北に着陸。空港には利音貿易のTeresaという若い女性(正しい名前は失念)が迎えてくれた。その日の夕刻は、利音貿易の社長である郭裕文さんと合流し、青葉新楽園という台北市内のレストランで食事をとった。ここは、ビュッフェスタイルの台湾料理の店で、日本人向けの観光ガイドにも載るほど人気があるらしい。多くの若い日本人女性観光客を見かけた。裕文さんは人懐こくお喋り好きで、日本語もとても上手である。聞いてみると、若い頃に国分寺のリオン独身寮に住み、2年間、音響と日本語の勉強をしたとのこと。また、私とは同じ年齢であったので、いっそう親しみを覚えた。彼は、佛跳牆(ぶっちょうしょう)というスープが美味いと教えてくれた。確かに美味い。仏僧がそのうまさに跳びあがったのだと説明してくれたが、真偽のほどはわからない。
翌11月15日(木)、台北駅から高速鉄道に乗車して、台中に移動した。台北駅の中を歩くとおや?と思った。駅舎の中にとても親しみを覚える。それもそのはずで、構内の風景が日本の地下街にとてもよく似ている。改札に向かう途中、台鉄便當(弁当)本舗と書かれた看板をみつけた。早速店に入ってみる。なんと駅弁が売られていた。中には「日式便當」と書かれたものもあり、日本の弁当(中身は不明)も売られていたのである。看板の文字が異なる以外は日本にいるのと同じだなと思った。
さて、自動改札から駅ホームに降りた。既に鉄道車両がホームに横付けされており、荷物を抱えて車内に入る。ここでまた驚きを感じた。まるで東海道新幹線の車両の中にいるのと同じ感覚なのである。よく見ると、車体も座席もその配置も、日本の車両そのままであった。しばらくすると車両が静かに動き始めた。電光掲示板に目をやると、次の停車駅は「板橋」と表示された。あれ?と思うとすぐに英語で「Banqiao」と表示されて一安心した。横の席で裕文さんは、朝食の弁当を美味そうに食べて眠り込んでしまった。台中への移動は、日本の新幹線に乗るような感覚であり、快適でもあった。
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台湾高速鉄道(左より郭氏、安孫子氏、筆者)およそ1時間で台中駅に到着。気温は30度。湿度は低く暑さはさほど感じない。快晴で太陽の光も強く、南国にきたという感触を得た。市内のホテルに移動。ここで台湾音響学会の主要メンバーに紹介される。学会の会長は黄榮村氏。名刺を見ると中国医薬大学の校長と書かれている。台湾の大学では学長とは呼ばずに校長と呼ぶらしく、なんとなく可笑しさを覚えた。午後は会長の他に学会の理事など、合わせて20名ほどで市内の「学術的視察」に出かけた。日本語では観光ともいう。
最初に訪れたのは、「地震教育園」というところである。台湾大地震(1999.9.21)がこの地域に残した爪痕を忘れぬようにと保存してある。いわば次代へのメッセージである。ここでは断層が3メートルほど隆起し、中学校の校舎がほぼ全壊したが、その状態そのままの形で保存されていた。日本も大地震に襲われるが、台湾も同じだとの認識をもった。東日本大震災こそ記憶に新しいものの、阪神大震災が残した傷跡は今やすっかり消えてしまい、その面影を探すことは難しい。爪痕を見て、その想像を絶するほどの凄まじい破壊力を思い知った。
次に訪れたのは、明台高級中学という学校である。理事長の林芳媖氏が案内をしてくれた。林一族は台湾の名家であり、台湾における教育活動に多大な貢献をしてきた。校内の記念館に案内され、林一族の教育活動の足跡としての写真や書物の展示物を見学。また、この一族は極めて裕福であり、彼らの立派な住居が歴史的な建造物として丁重に保存されていた。
この視察の後、夕刻にはホテルで晩餐会が催された。大きな丸テーブルの周囲に全員座り、一緒に食事をした。給仕が運んでくる料理を皆でとりわけながら中国語で楽しい会話が飛び交っていた。しかし、私にはさっぱりわからない。横にいた日本語のわかる女性に通訳を頼んで内容を理解したが、人より遅れて笑い声を発したのは恥ずかしかった。
翌11月16日(金)、研究発表会の会場となる朝陽科技大学のキャンパスに移動する。台中市内から車でおよそ1時間かかった。構内に入って驚いたが、敷地が極めて広く、あこがれの青春ドラマの舞台となりそうな近代的で立派な高層建物が立ち並んでいる。また、キャンパス内を行く男子、女子学生の服装は、東京の若者たちと何ら変わらないファッショナブルなものであった。
地震教育園にて 朝陽科技大にて発表会場に入ろうとしたとき、大きな花輪に目に入った。そこにはカードがついており「・・圓満成功 日本小林理学研究所 理事長 山下充康 敬賀」と書かれていた。別の花輪には、同じくリオン株式会社の井上社長のカードがついている。台湾音響学会は、リオンと小林理研が応援していることを意味している。とても誇らしかったが、会場を離れる際に花輪の請求書を手渡された。応援は有料だったのだ。
さて、研究発表会は総会から始まった。事業報告と決算報告が行われた。会員数は280名あまりで、今回の研究発表は30件程度だとのこと。この総会では重要な案件が審議され、投票が行われた。それは、「中華民国音響学会」の名称変更である。3つの案が出された。「台湾声学学会」、「台湾応用声学学会」、「台湾音響学会」である。投票結果は、順に15票、0票、3票であり、「台湾声学学会」が正式に採択されることとなった。亡き五十嵐寿一先生の時代からの重鎮である黄乾全先生は「台湾音響学会」に投票した。日本の「音響学会」という名称に敬意を示されたのであろう。しかし、台湾で「音響」といえば、音楽の意味に取れるそうだ。Acousticsの意味では「声学」がふさわしいとのことで、日本とは逆だ。いずれにせよ、これで中国本土の音響学会と歩調を合わせたことになる。すなわち「香港声学学会」、「中国声学学会」に連なって「台湾声学学会」である。この3つの学会は、近年合同で研究発表会を開催していると聞いた。台湾が日本から大陸の中国に近づく瞬間を見たような気がしてならない。
さてその日の10時から専題演講という名称の講演が2件行われた。1件は私の講演で、演題は「EU approach to traffic noise control and recent noise policy」である。もう1件は間組技術研究所の上田泰孝氏の「An Introduction of Japanese General Contractor on Acoustical Approach」であった。発表は日本語で行い、それを日本に留学経験のある会員が中国語に通訳するのだが、この講演形式はやりにくいというのが上田さんとも一致した意見だった。両者とも用意した内容の半分も話せなかったからである。昼に2人で日式便當を食べながら、日本語でひそひそと不平を漏らしてしまった。
私は、その日の午後、安孫子さんらとともに高速鉄道で台北に戻った。夜は、台北のLand Markである、「台北101」という高層ビルに昇った。高さが509mで地上101階建であるため、この名前が付いたとのことである。地震大国でもあるので、上層階には重さ660トンの球形TMD(Tuned Mass Damper)がついていた。このビルもいずれ東京タワーと同じように新たな高層ビルやタワーにLand Markの座を奪われるのであろうなと思いつつ、台北最後の夜を眼下に広がる台湾玉石を眺め過ごした。