1988/7
No.21
1. 晴天のショックウェーブ 2. 騒音環境基準の設定経過(その3) 3. 補 聴 器 4. 人の反応を見る 5. レーザー加速度計
       
 晴天のショックウェーブ

五 十 嵐 寿 一

 古い記録を整理していて、定価参拾八銭と印刷してある大学ノートに走り書きしたメモを発見した。それは昭和20年8月、広島における原爆投下に関するものである。当時陸軍技術研究所に籍をおいて水中音響の仕事をしていた筆者は、瀬戸内海に投下された音響機雷の調査のため、7月下旬から7〜8人の仲間と一諸に広島に出張していた。最初市内の西にあたる己斐に宿舎をとっていたが、空襲に備えて家屋の疎開が始まっていたときで、8月に入ってさらに10kmほど西方にあたる廿日市の民家に移転し、小学校の校舎の一室を借りて拾得した機雷の音響信管の調査を担当していた。食事は学校でとることになっていたので、8月6日の朝もいつものように8時頃より朝食が始まっていた。その日は雲一つない晴天で、酷暑が予想される朝であった。

 一瞬、薄暗い室の中を光線が横切った。それは自動車のバックミラーに反射した日光のようでもあったが、それは体験したことのないような淡紅色で、互いにハッと顔を見合わせた。すぐ席を立って窓の外に目をやると、東の方向、広島市の辺りに薄墨色の煙が空高く立ち登りつつあった。火薬庫の爆発か?と言いながら上空に目をやると、澄み切った青い空の中にくっきりと虹ほどの幅を持った白色の輪の一部が煙の方向から次第に近づいてくる。爆発の衝撃波かと思う間もなく真上を通り過ぎ一瞬息を飲んだとき、一陣の突風のように建物の窓ガラスを薙倒していった。それは閃光を見てから30秒くらい経った頃だろうか。吹き上げた煙はさらに高く広がって空を覆い、何か不吉を思わせる状況で、ただ呆然としばらくの間立ち尽くしていた。その後2時間ほど経った頃、急に空が真っ暗になり大粒の激しい雨に見舞われた。いま思えば放射能を帯びた危険な雨ではなかったろうか。広島市内とは全く連絡もつかず不安のまま夕方になると、広島市に通じる国道を負傷した人々が続々徒歩で避難してくるようになった。そのほとんどの人が全身火傷にやられており、素足の人も多く被服はボロボロにやけ焦げていた。表通りに出て水を求める人に水を、また火傷には食料油などを塗ってあげるのが、われわれのできる精いっぱいのことであった。そのうち我々のいた学校も急遽校舎の一部を開放して避難してくる人々を収容し、応急手当をする病院に早変わりし、近県から医療班も駆けつけてきた。さて翌日になって、爆発はB-29から投下されたもので、単なる爆薬ではない新型の爆弾で、ひょっとすると原子爆弾ではないかということになり、東京から仁科芳雄博士(当時理化学研究所で原子核の研究をしておられ、この分野の第一人者)が調査にこられるという情報が入った。恐らく広島市には東京から連絡がとれないので、たまたま最も近くにいた我々のところに連絡が入ったものであろう。先生をお迎えするようにとのことで、筆者が物理出身であることからその役を仰せつかることになった。8日の朝、トラックを仕立てて広島市に向かったが、己斐のあたりまでくると、屋根が一度吹き上げられて家が押しつぶされ、瓦が粉々になっているのがみられた。火災も方々で発生したらしく至るところでくすぶり続けていたが、動物の死骸がところどころに散乱しており、異様な臭いがたちこめてその惨状は目を蔽うばかりであった。北の方向に目をやると中国山脈の山肌は、真夏というのに秋のように一面黄色に変色していた。

 確か駅で先生と随行の新妻中佐(物理学科で筆者の2期先輩)をお迎えしたあと、別に出迎えた軍の関係者に案内されて、とりあえず爆心地と思われる練兵場(現平和公園)付近の様子を見てまわった。この真上で炸裂したという辺りは草が黄色になっているだけであったが、少し離れた木造の建物はことごとく焼け落ちていて、コンクリートのビルだけが焼け焦げた色にかわりそのまま残っていたが、窓ガラスはほとんど砕けていた。また文理大の校庭では、高さ2メートル程の杭の影が黄色になった芝生にそこだけ緑色のままになっていて、これから爆弾が炸裂した方向と高さが推定できると案内の軍人が説明した。焼け残った建物の中には全身強度の火傷を受けた人たちが多数収容されていたが、治療も行き届かないので唯呆然と苦しみに耐えているように見受けられた。市内の大通りにでると、市電の車体が線路から横にはみ出し方向を変えて倒れており、爆風のものすごさを示していた。先生が概略の視察をされた後、比治山あたりの建物の会議室に移り、関係者が集まって調査報告会が開催された。これには仁科先生、新妻中佐のほか調査を担当した関係者として、陸軍、海軍の軍人、技術者等20〜30人が参加した。筆者も末席で会議を傍聴することになった。その時のメモが最近発見されたもので、メモをとった記憶もないまま40数年が経過したことになる。以前原爆体験記を記憶に基づいて綴ったことはあるが、今回は偶然発見したメモに沿って会議の模様をたどってみることにする。

1. 爆発前後の様子

 陸軍高射砲隊見習士官の報告:午前8時過ぎ、広島から宇品に向かっていた。B-29が1機400方向を西進するのを発見、同時に落下傘3個が落下するのを認めた。15〜20秒後、爆発音と爆風を感じた。爆煙は高さ2000m位で輪になっていて、淡黄色、煙は下から吹上げられてだんだん大きくなり9500m位に達した。その中は燃えているようで、目にマグネシュウムのような白い閃光が走り顔に熱さを感じた。落下傘は9000mくらいからそのまま落下していった。

 海軍防空隊報告:午前8時14分:大型機の爆音を捕捉、同15分:B-29、 2機が雁行するのを発見、高度7000m、間もなく先頭は右方向、北に偏進、次は左に旋回した。 突然閃光が走り、先頭のB-29は急角度で偏進して南に進み、高度を7000mから急速に1800m辺りに降下した。閃光発見の位置は左旋回した辺りで、右旋回したB-29からは落下傘が4個投下され、1個は開かないまま落下した。落下傘は小型で2m位で、1分間150m位の速度で降下した。爆発による煙は5500mから6500mに達した。なお、閃光のあったとき、電話の担当者は過電流の感覚があったと述べている。 筆者注:落下傘を投下した機と原爆を投下したものが同一機か、別かは不明。見習士官の証言のように広島市では飛来したのは一機であったとする人も多いが、防空隊の報告のように2機飛来したとすると、後続機が市の数km手前で原爆を投下して左旋回し(高度7000mから投下した場合地上近くで爆発するまで、約30〜40秒かかる)、先頭の右旋回 した方は落下傘を投下した後、爆発を確認して急拠退避したように推測される。

2. 爆発の位置及び被害の状況

 海軍の調査:爆発の位置は護国神社南方300m辺り、高さ550m(文理大における杭の影から推定)爆風により半径2kmの範囲の日本家屋は全壊、鉄筋コンクリートの建物は爆心近くでヒビが入っている。防空壕は爆心近くでも丈夫なものは無事で、家族全員助かった例がある。ただ空襲警報が発令されていなかったので、防空壕に入っていた人は少ない。屋内、屋外とも火薬は発火していないが、野外で飛行機が一機炎上した。1.2kmでは着物がはがれた。焼夷性で材木は爆心側が炭化しており、紙は着火した。蛍火が飛ぶのが認められ遠くでも山火事が発生した。従って高性能の熱爆弾と思われる。(注:山火事は発生したが、メモからは蛍火の意味不明。夜になってからの飛火かもしれない)

 松永軍医少佐:負傷者の90%は火傷で、被服が焦げ体に水泡ができている。火傷は焼夷弾によるものに似ているが傷みは少なく、太陽灯や紫外線による火傷に似ている。大体爆心から3km以内で光を見た場合に火傷の症状がでているが耳に傷害はない。入院死亡率(江波3km地点)30%(130/560)日赤病院の地下室のX-rayフイルムが感光しているが感光度は弱い。

 海軍衛生部報告:80%は火傷で方向性が認められる。白い下着の場合その周囲にのみ火傷の症状がみられる。白紙のなかの黒い文字は侵されているが、赤字はそのまま残っている。従って白い衣服を着ていると被害が少ないと思われる。鼓膜に症状が認められたが目だけやられたということはない。閃光の前に熱気を感じたという人もあるが、閃光と同時に顔を手で覆って手のみ火傷した例がある。

 以上の報告の後、爆発は原子爆弾かどうかについて議論がおこなわれた。海軍の調査の結果として、これは特殊な熱爆弾で水素か過酸化水素などをつかったものではないかという説に対して、仁科先生から爆発のエネルギーとしては、火薬10000トンにも相当していると考えられ、これはウランのエネルギーであるとしてほぼ計算に合うこと、ウランは5〜10kgで、ほかに水30kgが原料ではないかと考えられる。フィルムに感光していることもこれを裏付けている。地上の物質も放射能を帯びていると思われるので詳しい調査の必要がある。また火傷はβ-線によるものと考えられるので、恐らく白血球が減少しているかもしれない。β-線はガラスを通さないので眼鏡をかけていると眼がやられない、等の見解を表明された。

 海軍の熱爆弾説が強く主張されたが、以上のような仁科博士の説明によって原子爆弾であることがほぼ確認されることになった。

 一方、短波放送を受信した情報として、米国は新型の爆弾を開発し、その威力は2000機の爆撃機に相当し、効力は3マイルの範囲に及ぶこと。その重さは50ポンド程度であることが報告された。(報告者についてはメモに記載がない。) なお、落下傘による投下物は拾得されて会議にも提出されたが、調査の結果では、圧力センサーと発信機で、爆発波の圧力を沖縄の米軍基地に送信するために使用されたものと推定された。これはラジオゾンテに似ていて、外側はアルミニューム管、重さ24.3kg.落下傘は開いた状態で直径、11.3m,重さ7.1kg発信機の出力40w, 発信周波数、16400kc.1g(重力の加速度)の加重の場合は、164435kc.と報告された。

付 録

音響機雷:原爆には関係ないが、当時調査した音響機雷に触れておく。これは従来の磁気機雷と異なり、艦船の推進音を感知して爆発するものであった。小型船の音や爆薬などの衝撃音によっては作動せず、大型艦船が次第に近づいてくる際の次第に増大する過渡的な音を補足して爆発するもので、大型艦船の識別機能を有していた。また信管にはリレー回路が8個ついていて、そのうちの何れかにセットするようになっていたことも確認された。

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