1990/10
No.30
1. インターノイズ90[Science for Silence] 2. インターノイズ90'に参加して 3. 水 晶 4. 1/3オクターブバンド リアルタイム アナライザー SA-27型

5. 50周年記念祝賀会にあたって

6. 小林理研設立時の思い出 7. 小林理研と私
    
 小林理研と私

河 合 平 司

 私は小林理学研究所が創立されました昭和15年当時、今のニコン株式会社、昔は日本光学工業株式会社の一技師をやっておりました。昭和10年頃から航空研究所で佐藤研究室の一員としまして西村雄太郎さんという方が、ロッセル塩の研究をずっとやっておられました。私もたまたまロッセル塩の研究をスタートさせましたので、よく西村さんとは連絡しておりました。

 昭和15年になりまして西村さんも小林理学研究所創立と同時に航空研究所を辞められ、小林理学研究所の一員として入られました。私もその創立当時の国分寺の景色、様子はよく存じ上げて、ずいぶん田舎のような所だなと思っていました。なにしろいつになったら国分寺の駅に着くのか、新宿からやきもきして駅を見ているような状況でした。

 西村さんがいろいろなご都合でお辞めになった時、ちょうど昭和17年、嫌な時代でございまして、日本光学工業ではロッセル塩なんてやってはいけないとか、いろいろな圧力がかかりましたのでこんな所にいてやるかというので、お願いして私は小林理学研究所へ入れていただきました。そういうわけで、たまたま小林理研の方々とも御馴染みにもなりましたし、またリオンの現在の方とも親しくお話できるという光栄に浴することになっております。

 戦争中はいろいろなことをやりました。リオンの前身の仕事も致しました。しかし、一番思い出に残りますことは、戦後の混乱期のことでございます。財団法人としての基本的な経済的基礎が全然ゼロになってしまったということが一番気になりました。当時、その中にいらした人々が気にならなかったかというと、それは当然気になりましたけれども、理事長、三宅さんからのお話しにもありましたように、その時の小林理学研究所の人達は能力のある方々ですし、どんなことがあってもよそでお仕事をすれば一廉の仕事をされる方ですし、たいして気にする必要のない条件だったと思っております。色々なことでよそに移られた方も立派なお仕事をし、我々残った者もそれを自慢にお話しできるような状態でございました。ただ、研究所の基礎としますとほとんどの経済的基礎がゼロになっておりました。佐藤先生以下他の民間研究所の方々が色々な努力を致しまして、もちろん文部省の御厚意もございましたが、民間研究所助成法ができまして、15年くらいの時限立法でございますが色々な経費を補助して下さるということになりました。

 その頃の対象となる研究所といいますと、理化学研究所のような所は株式会社になり、メーカーについている研究所はメーカーが責任を持つ訳で、それ程ございませんでした。基本的に小林理学研究所とよく似ておりますのは、木原生物研究所という木原均先生がやられておりました研究所、豊田がやっておりました豊田理化学研究所などが代表的なものでございました。その他に徳川とかそういう元大名の創設しました研究所がありましたが、それは特別で問題外でございます。

 私は、使い走りとして色々な所へお使いをしたことがございます。それで木原先生の所へお使いに行きまして木原先生に色々と伺いますと、木原先生は仙人の様な方でございますから「金がなくなったらやめるよ。」とおっしゃり、相手にして下さいません。それから昔の航空研究所時代からお知り合いの村井さんという方が主としてやっていらっしゃいました豊田理化学研究所に伺いますと、「潰すに限るよ。」と言って潰してしまいました。ただ、その豊田理化学研究所におられた村井さんという方は、曽我特許事務所に移られまして本当に経営者的立場でやっておられましてみなさんと御馴染みになってらっしゃると思いますし、私もずっと後まで御交際させていただいております。

 木原生物研究所の方はといいますと、私は昭和45年に縁あってといいますかチャンスがありまして、横浜市立大学に奉職することになりました。その時に御挨拶に行きましたら、木原先生は覚えていて下さいまして、非常にかわいがっていただき、またいろいろな御指導を受けてまして、喜んでおりました。立派な方でございます。昭和52,3年頃に経営的に行き詰まっておりまして、木原先生にお願いして、財団法人でございますから議員の方達によく御相談しまして、横浜市立大学に御寄付を願うという風にしてはいかがかということで、横浜市立大学の研究所としていただき、現在横浜市立大学の大学院の中核的組織として、研究所として、大学院の中心になっております。もちろんその事は横浜市のご厚意によるものでございましたが、私もその事の一端を担いましたことは非常に喜んでおります。小林理学研究所の本来の目的、小林采男先生の本来の目的は生物物理のことだと言っております。それは覚えておりますが、それを横浜市立大学でやれるような組織にできたということは、私自身の大きな喜びだと感じております。

 そしてまた色々なことで小林理学研究所に来させていただくということになりました時に、私が一番驚きましたことは、中の方々のお仕事が、皆さん前におられた方々が非常に立派に御成長されて、研究をされているということばかりじゃございません。民間研究所として完全に自立されているということです。例えで申し上げれば少し俗っぽいのですけれども、前々回の理事会の御報告でうかがったんですが、収入より支出の方が少ないから税金を支払わなければならないという事態になっております。戦後の混乱期には民間研究所がこんな風に発展していくなどとは私は夢にも思いませんでした。豊田理化学研究所は解散し、木原研究所が大学の付属研究所として発展していくという、二つの道を先程お話しましたが、自力で生活費まで稼ぐということもなし得るということは私には思いもつかないことでございました。公立研究所とか国立研究所ではなくて盛んにやっておられるキャベンディシュだとか、キューリー研究所だとかは、非常に進歩した社会でできることでして、ある私立の研究所が自力で補助なしでやっていくという所は私は寡聞ながら知りません。

 最近噂を聞かないのでなくなったのかもしれませんが、マロン研究所といいましたかメロンは銀行でございましたか、ちょっと確かなことはわかりませんが、アメリカには自分で資金を持っておりまして、色々な研究所に研究を頼みまして、その合成を依頼されたところへ持っていくという有名な研究所がございました。小林理学研究所のような自立できている研究所というのは繰り返しますが私は寡聞ながら知りません。中で行っておりますのは社会のニーズとしての研究でして、その研究費ですべて、大部分を賄っている。そういう方向に進めているということの方が研究そのものの内容の問題よりも、社会的に重要であると私は考えております。そういう意味でこの50年、過去10年間のこれに携わった皆様の御苦労に、心からの御賞賛と感謝の念を捧げる次第でございます。

 本年は50周年でございますから、60、70、80周年と少なくともこの調子で重ねて、その内容は社会の必要なものを当然やっていかれるんですが、こういう形で研究所を社会の中で、もちろん遅れた社会では出来ないのですが、こういう進んだ社会で進め、自立させ、進歩させていくということが、ある研究というものの広い意味での重大な報告であるのではないかと思っております。50周年記念号、またやがては60周年記念号というものを社会のために、研究内容の報告ばかりではなくて、是非こういう経営その他のことについての詳細な記録を残されることが重大なことではないかと思っております。