1990/10
No.30
1. インターノイズ90[Science for Silence] 2. インターノイズ90'に参加して 3. 水 晶 4. 1/3オクターブバンド リアルタイム アナライザー SA-27型

5. 50周年記念祝賀会にあたって

6. 小林理研設立時の思い出 7. 小林理研と私
    
 小林理研設立時の思い出

三 宅 静 雄

 50年前に蒔かれた種から芽生えた若芽が、いろいろ途中で困難な時もございましたが、見事に成長を遂げ、現在なお、社会的に立派な存在として活動しておられることは、大変おめでたいことでございます。この席に私も御招き頂き、旧い皆さん方にお目にかかれて大変嬉しく思います。また、何か話しをせよという事も大変光栄と存じます。私は比較的短い期間の接触でございますし、また私の知っておりますのは昔の小林理学研究所のことでありまして、最近のことは余り承知しておりません。従って、これからお話ししますことは、いたずらに昔を懐かしむというような話になるかも知れませんが、その点はご容赦願いたいと思います。

 小林理学研究所の15周年の際にもいろんな方が文章を書かれておられますが、それによりますと、当時小林鉱業株式会社の社長であられた小林采男氏は『研究所の準備は昭和12年の秋頃から始めた。』ということを書いておられます。今年が50年になるというのは、多分小林理学研究所が財団法人に認可された昭和15年からということだと思いますが、実はその前に多少の歴史がございます。その時のことをこの席でご存じの方は、私と能本さん、小橋さんぐらいですので、その時のことをちょっとお話ししたいと思います。

 私は当時、理研におりまして、西川正治先生の研究室で御指導を受けておりました。ところが、昭和13年の6月の終わりか7月の初めの頃だと思いますが、西川先生から突然、「今度新しい研究所の設立の計画があるが参加しないか。」というお話しがありました。まだ実態も何もないところなので私も大変戸惑いましたが、先生の御勧めによって参加することに致しました。その後、推進役の佐藤先生にもお目にかかり、また小林さんにもお目にかかりました。当時、東京駅の乗車口の奥の方にちょっと大きな喫茶店がございましたが、佐藤先生はそこがお好きで、しょっちゅう先生とそこでデートしたものです。

 新しい研究所に参加することが決まりましてその年の11月に辞令を貰いました。その辞令というのは、まだ研究所がないので、『小林本社社員を命ず。』というものでした。小林鉱業という名前は聞いているわけですが、小林本社というのはどういう会社か、実は今もって知りません。多分、社長室に直接くっついた名目的な会社ではなかったかと思います。とにかく私はこの小林本社の社員となりました。また、まだ研究所の実態がございませんので理研の実験室で研究を続けさせていただきました。

 その翌年の昭和14年の4月から、大阪から岡小天先生がお見えになり、能本さんも陸軍科研をお辞めになって参加されました。その当時、丸ビルの中の小林鉱業の借りていた一室が岡先生の部屋になりまして、岡先生はそこで膨大な書籍、雑誌類を購入され、そしてそこで小林理学研究所としての最初の談話会が始まったわけです。また、その年に土地探しなどあったのですが、この国分寺の土地は佐藤先生が、独力でお探しになったと記憶します。また、間違っているかも知れませんが、当時一坪が17円くらいだったと記憶しております。その土地をお見つけになって、小林理学研究所の基礎の一端を築かれたのでございます。

 私はといいますと、理研におりましていろいろな装置を買ったりして用意をしておりました。研究所の建物が出来ましたのが昭和15年の11月頃で、早速移って参りました。その当時は現在以上に非常に閑静なところでございました。15周年の記事の中に佐藤先生は『設備・書籍が充分に整って、非常に静寂な林の中に研究所が完成したのを見た喜びは筆舌に尽くし難いものがあった。』と書いておられますが、これは誠に実感であったと思います。なお、地鎮祭はその年の2月にあったと記憶しております。

 以上、昭和15年以前の事をお話して参りました。ところで小林理研のことを思い出しますと、佐藤先生のイメージとだぶってしまいます。佐藤先生には大変お世話になりました。先生は非常に偉大な方であったと思っておりますが、またなかなか複雑な方でもありました。非常に倫理感の強い方でありましたが、枠にははまらず、非常に慎重かと思うと放胆であられる。非常に優しくて情の厚い方でありますが、意地悪なところもございました。そういう風に非常に振幅が大きい方でございましたが、理想主義者であられ、何をなさっても理想主義の線が一本通っておりました。私は昭和24年に東工大に呼ばれまして、東工大へ移りましたので、小林理研に対して義理が充分果たせなかったのを申し訳なく思っておりますが、私は研究をもう少し広く伸ばしたかったということでございます。この時佐藤先生は非常に失望されたことと思います。しかし先生はそのことについては私に何もおっしゃらずに、その後も非常に暖かく扱って下さいましたことを私は心から感謝している次第でございます。

 その他、思い出せばきりがございません。小林理研は過去からいろいろな人を吸収し、あるいは輩出してきましたが、その中にはこういう席に出席されず、しかも小林理研のことをよく覚えている方がたくさんおられます。戦時中のことですが、一高あるいは東大の学生がたくさん来られました。その中にはその後立派な学者として名をなした方が数多くおられます。例えば昭和19年に来られた一高生の中の井口洋夫さんは現在分子科学研究所の所長をしておられます。また同じ年に来られた東大学生には、現在名古屋大学の学長であられる早川幸男さん、同じく富塚辰夫さん等がおられました。富塚さんは、アリゾナ大学の物理学の教授をしておられます。また次の年に来られた一高生の一人三雲昂さんは原子核の研究者になられ、現在筑波大学の名誉教授でいらっしゃいます。少し方向が違いますが、経済学者になられ、東大教養学部の学部長もなされた嘉治元郎さんもその頃来られた一高生の一人でございます。また、私の研究室に一時北原節子さんという可愛い女の子が入って来られたのですが、これが後に芥川賞を得られた津村節子さんでございます。そういう方々にたまにお会いする機会があるのですが、皆さん、小林理研時代のことを懐かしく思っておられるということをお伝えしておきたいと思います。

 あまり現在の小林理研に関係するようなことは申し上げられませんでしたが、佐藤先生の記念碑であり、先生の残された貴重な偉業でありますこの研究所が今後も末永く発展していかれることを心から願う次第でございます。

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