1990/7
No.29
1. 残響室・拡散音場・吸音率 2. HENRICIの回転ガラス球式波形解析器 3. 小型グローエンジンを用いたフィールド実験用点音源の試作 4. 音響インテンシティローブ SI-31
       <骨董品シリーズ その11>
 HENRICIの回転ガラス球式波形解析器

所 長 山 下 充 康

 信号処理技術の飛躍的な発達によって、音の周波数成分の分析は極めて日常的な作業になった。中でも、与えられた関数をフーリエ級数に展開する際に係数を決定する、いわゆるフーリエ解析は、近年、計測機器の開発、普及にともなって比較的手軽な音響分析技法として関係方面で様々な形で利用されるものとなっている。

 波形解析に名を残したフーリエは数学者であり物理学者でありながらナポレオンのエジプト遠征に従軍した経歴を持つ軍人志望の変わり種の科学者であった。彼が任意の関数をsin関数とcos関数の無限級数に展開することが出来ると言う、いわゆるフーリエ級数論を初めて発表したのは1822年(文政四年)である。

 以来、フーリエ級数は波形解析の論議に頻繁に登場することになるが、実際に応用しようとする場合にはsin関数とcos関数の係数の決定に極めて繁雑な積分演算の手続きが必要であった。今日では電気的な演算子の助けによって複雑な積分関数でも短時間に処理が可能なので、フーリエ展開はさして困難な作業ではないが、手計算でこれを行うとなると大変である。

 そこで考案されたのがフーリエ級数の各係数を機械的な操作によって求めようとする解析器の「からくり道具」である。

 様々な種類の解析器が考案されたらしいが、中でも音響計測の名著L.L.Beranekの「ACOUSTIC MEASUREMENT」のAnalysis of Sound Wavesで紹介されているHenriciのHarmonic Analyserは見事な「かくらくり道具」である。

 前置きが長くなったが、今回登場する骨董品はこの「からくり道具」である。

 これが初めて登場するのはPhilosophical Magazineの38巻(1894年)に発表された「On a new Harmonic Analyser by Prof. O. Henrici」の論文である。それによるとHenrici教授はチューリッヒの機械職人Coradi氏に自分の考案した原理的な考えを説明し、色々と注文をつけて試作に成功したと記述されている。論文に示されている説明図を図1に示した。

図1 Philosophica Magazine(1894年)に掲載された Prof. O.
Henriciの論文<On a new Harmonic Analyser>の説明図

 百年近く前に考案された解析器であるが、これと同じ物が研究所に残されている。G.CORADI ZURICHの刻印が見られる。(写真1)

写真1 CORADIの刻印

 複雑な可働部分が入り組んだ機械であるが、その滑らかな動きはいかにも時計職人の国スイスで製作された精巧な工作技術を感じさせてくれる。使われている材料が吟味されているのと保管状態が良かったためであろうか、錆ひとつ見当らず、新品同様である。(写真2)

写真2 全体の姿

 長方形に組まれた堅牢な鉄のフレームは車輪で支えられていて機械全体が前後に動かせるようになっている。フレームの上には機械的に演算機能をする複雑に入り組んだ装置が搭載されている。ずしりと重い。

 フレームの手前側がガイドレールになっていて、これに沿って左右に動く「針」が取り付けられている。針の動きは左右と上下のコーナーに備えられた小さな滑車を通してループ状に張り渡された細い銀のワイヤーによって「演算子」に検知される仕組みになっている。フレームの前後の動きも、シャフトの回転によって移動距離が検知されるようになっているがこれも「演算子」に伝えられる。

 この機械を解析の対象とする関数曲線の描かれた用紙に載せて、関数曲線を「針」でたとえることになるが、「針」の左右の動きがx軸、フレームの前後の動きがy軸に該当し、座標値(x, y)の変化が連続的に「演算子」に送り込まれることになる。

 この機械の心臓部は「ガラス球」を組み込んだ「演算子」の部分である(写真3)。「演算子」は3つ、そして各演算子はそれぞれに径の異なる3つのプーリーに固定されて、「針」の動きがワイヤーによってプーリーを回転させる。この動きは演算子の中枢とも言うべき「ガラス球」を回転させる。 「ガラス球」はフレームの前後移動と針の左右移動の両方に対応して前後左右に自由に回転するように工夫されている。ガラス球は極めて精度の良い真球で、表面は擦りガラス状に仕上げられていて、半透明ボールが冷たい光を放つ金属部品に囲まれてクルクルと回転する様子は見ていて楽しい。

写真3 ガラス球を組込んだ演算子

 ガラス球の表面に二つの小さな車輪が接している。二つの車輪はお互いに90°の角度で球の表面に垂直に接するようにセットされていて、それぞれがsin関数とcos関数の係数に対応した目盛の刻まれた文字盤に連動している。(写真4)

写真4 演算子の目盛ディスク

 曲線をたどる前後、左右の針の動きをガラス球の回転に変換し、球の回転角から、sin関数とcos関数への展開を導く工夫は見事な知恵であり、さらにこれを実現した精密なメカニズムの細工には驚嘆を禁じ得ない。

 3つの演算子が各々3種類のプーリーを持っているからワイヤーを掛け換えると33通りに組み合わせることができる仕組みになっているので、かなり高次の展開が可能である。

 機械的な演算なので解析に取り掛かろうとすると特定の規定に従った寸法の波形を作図したり、機械の調整をしたりする準備作業が繁雑であるが、原理的に明快なのが嬉しい。この機械が発表された当時には物理や数学の関係者の注目を集めたようで、Philosophical Magazineの1894年版にはこの機械に関する論文が特集されている。  一般には馴染みの薄い骨董品であるが、全く傷んだところが無く完全に機能するこの波形解析器は研究所のガラスケースの中で一段と威厳を放ちながら鎮座している。

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