1986/1
No.11
1. 老人性難聴を経験して 2. 低周波音評価の周波数特性 3. インターノイズ’85-ミュンヘン-

4. 第4回鉄道および軌道交通システムの騒音に関する国際会議に出席して

5. 聴覚障害児教育国際会議に出席して

6. 補聴器の装用利得についての検討 7. フランス新幹線 TGV
       
 老人性難聴を経験して

理 事 近 藤 正 夫

 本ニュースの前号(No.10)には「老年と聴力」と題して、切替博士が医学的概説と予防対策を述べられている。それに引続いて本号では、74.5才になる私が私自身の難聴経験を少しく書かせていただくことになった。御気付きの点をお教えいただければと願っている。

はじめに
 同一の刺戟に対して各個体の受ける感覚内容が果して相等しいかどうかを知ることはそう容易なことではない。色盲がはっきりわかったのは、長い人類の歴史のなかに位置付ければ近々19世紀のはじめのことで、英国の科学者ダルトンによることは有名である。聴覚に関していろいろのことがわかりだしたのも極く最近のことなのだ。

自覚されない聴力低下
 切替先生は聴覚の経年変化について次のように述べておられる。「ヒトの聴力は中年以後から―もっと正確には20才代から―次第におとろえを見せはじめて、とくに高音部の聴えがわるくなってくる……。」これは調査、検査の結果であって、3、40代の普通人が日常生活のなかでこの低下を自ら意識することはほとんどない。しかし自然界の音に関する限り、聞えが悪くても、よし聞えなくとも生活上そう大きな障害はおこらない。自然界にその音が無かったと思えばそれですんでしまうからである。その意味では聴力低下が自覚される程になっても自然音に関しては同じことがいえるであろう。(もっともこれは危険予防的な音を聞きもらしたことによって自分が災害を受けることを除外した話だが)私の場合、家の中で「あら、カンタンが鳴いている」といわれても、私にはちっとも聞えない。戸の外へ出て、耳をすませて「うん、わかる」となるのである。しかし、虫の声が居ながら楽しめなくともあきらめればそれですむ。ところがそれではすまなくなることがある。問題は対人関係において顕在化するのである。

自覚される聴力低下
 切替先生の文章からもう一個所引用させていただこう。「……聴力のおとろえるのは漸進的であるばかりでなく、自分で聴えが悪くなったと感じるのは60才も後半になってからの方が多い。」
 私の場合は60代の前半でこう感じだした。対人関係においてである。音は聞えるのだが意味ある言葉として聞き取れないのだ。これが自覚を決定的にするのである。聞き取れないのにも色々の段階がある。私の右往左往の経験をすこし述べさせていただこう。

(I) 最初の言葉がわからない
 他人の話を聞くのだが、最初の言葉がわからない。その単語はもちろん私が知っている筈なのだが、聞き取れない。場面としては数人以上集まって会議などをするときが特に具合悪い。誰が発言するか予想がつかないときである。最初の一声でその方へ注意を向けると、つぎの言葉からはわかる。しかし悲しいかな、第一話をミスすると全体がわからなくなることが以外に多いのだ。そこで話のはじめに「あのー」とか「えっと」とか余計なことを云う、どちらかと云えば話下手の人の話の方がよく聞きとり易くなるのだ。この程度の低下は注意力の集中努力でやっと補いがつくのであろうか。会議の人数が大勢になればなる程、聞き取りにくくなる。はっきりわからないで発言しなければならないときは心が重くなる。一対一で顔を付き合せての話になるとほっとする。

(II) 低下が進むと途中の言葉もわからなくなる
 面と向っているとき、こうなれば聞き返すことになる。この時、一言だけを聞き返したいのだが、なかなかそれがうまく行かない。気易い間がらの家内の場合なぞ、面倒臭いと云わんばかりに、大声で早口で前と全く同じことを繰返す。これでは何回云われてもわからない。声を大きくしなくてもゆっくり云ってくれればいいのだ。あるいは別の言葉で云い変えてくれればなお有難い。内々なら喧嘩をしながらでも少しずつ会話も向上するが、はじめての方には御迷惑をかけることになる。

(III) 聞きとり易い人、聞きとりにくい人
 語す相手によって、大変わかり易い人と全然駄目な人とある。総じてアナウンサーの話は楽に聞ける。ソナグラフでいちいちの場合をしらべたらきっとちゃんとした区別がわかるのではなかろうか。

(IV) 椎名町が飯田橋に聞える
 私は平常西武池袋線を利用している。ある時、車内放送で「次はイイダバシ、イイダバシ」と云っている。おやここに飯田橋なぞない筈だと思って、注意をしていたらまた「イイダバシ、イイダバシ」という。いや「シイナマチ」ときこえる筈と期待しているのにかかわらず最後まで「イイダバシ」と聞える。この車掌とアンプの特殊なコンビがある音のパターンを作っていたのであろう。このようにはっきりした経験は残念ながら一回だけだったが、これを逆手に使って、難聴の種類分けができるのではなかろうか。ちょうど色盲検査表のように。

補聴器と私
 私はこの12年間に別々の所で(内一回はアメリカで)聴力検査を計3回受けた。この3回のオーディオグラムはお互いによく一致しているといえる。その間にいくつかの補聴器を試みた。しかし現在はできるだけ補聴器無しを心掛け、どうしてもという時にだけ使うことにしている。ここに至るまでのいくつかの大事な点を取り上げてみよう。
 最初の聴力検査は昭和48年1月、リオネットセンターで検査を受けた。得られたオーディオグラムによれば、聴力損失は左右共ほぼ同等で、500Hzで10dB、2000〜4000Hzで35dBとなっている。(これは現在使われている聴力レベルではない)。また、語音検査で聞き取れなかったのは、「リ」と「デ」だったと記憶している。「補聴器を使うかどうかの境目ですね」が測定専門家の判断であった。
 しかし私は何でもやってみたいたちなので、耳掛式の補聴器を購入して試みてみたが、使用してみていくつかのことが、自分なりに判ってきたように思う。
 片耳だけの補聴器使用は、他耳へ影響を及ぼさないであろうか。補聴器をつけると確かに大きく聴えるが、何となく不快感がある。
 ここで思い出すのが眼のことである。片方がある程度を越えてアンバランスに悪くなると、良い方だけで物を視るようになり、悪い方が邪魔をしないように斜視になるそうだ。一眼しかないときは、それがどんなに能力が低くても捨てられることはないのに、両眼であるが故に、アンバランスに悪い方は次第に萎びてゆく。
 刺戟を2チャンネルで受け取って一つに合成する場合、両チャンネルに対する刺戟のアンバランスが、両チャンネルの機能維持にどう作用するかは問題であろう。
 耳掛補聴器を一台しか購入しなかったことがいけなかったのかも知れない。両耳は協力して一つの判断をしようとしている。耳掛式一台だけでは折角あるもう一つの耳を無用にしてしまうのかも知れない。両耳の存在は決して一つの耳を唯二つ合せたものと違うことに注意しなければならないだろう。
 こんなことで、現在は箱型補聴器をステレオで、必要なときだけ使うことにしている。

耳に手をあてる、耳を擦る
 言葉が聞きとれないとき、耳に手をあてると、意外によくわかるようになる。これは健全の人にはわからないことと思う。私も難聴になるまではその効果は知らなかったものだ。兎の耳ほどではなくても、格好のいい反射板が出来たらいいのにと願っている。
 また耳に手をあてるとき、耳殻を色々の方向にひっぱって見ると、たまたま格段に聞えがよくなる時がある。またいつでもというわけではないが、息をのんでいきむと、突然聞え方が変化する。こんなことから想像をふくらますと、鼓膜の振動を伝達する三個の耳小骨のリンク状態も聞え方を左右しているに違いない。私の耳管はいつも閉塞がちで、飛行機の降下時には必ず聞えなくなる。これは鼓膜の片寄りが膜の張り方を変えると同時に耳小骨のリンク状態を変えているからに違いない。老人性難聴の一因はこのリンクの悪化にもあるのだろう。私は機会ある毎に両耳附近を手で擦っている。

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