1984/12
No.7
1. 私と補聴器

2. 低周波領域におけるマスキングについて

振動ピックアップの絶対校正(その2) 4. Tr式微風速計の概要−新しい熱式風速計− 5. 騒音と会話の了解度
     
 私と補聴器

 当所理事 昭和大学医学部教授 岡 本 途 也

  私が初めて補聴器を見たのは昭和24年の春でした。恩師切替教授より医局で昼食を取っている時に、「誰かこれをやらないか?」と言って見せられたのが、弁当箱のような補聴器でした。それを見て、「はい、これをやらせて下さい」と申し出たのが私で、その時は、入局してから半年しかたっていない若者でした。当然、切替教授も躊躇されたことでしょう。

 私は昭和23年10月東京大学耳鼻咽喉科教室に入局しました。入局後3日目に、切替教授から聴力検査をやるように命ぜられました。その時分はハルトマン音叉で聴力を測定するのが主体で、当時には珍しく2Aオージオメータも備わっていました。防音室は今から思えば犬小屋のようで、壁にマットを張っただけの小さな部屋でした。そこで先輩に命ぜられ、次々に聴力を測定したのですから、夜遅くまでかかることもしばしばでした。難聴の人達を入局当時から目にしてきて、この人達を何とかして救いたいと思っていましたので、補聴器を見た時に、前後の見境もなくそれに飛びついたのです。今から思えばかなりの強心臓で、恥入る次第です。

 電気補聴器は小林理学研究所で試作されたばかりのものでした。ミニチュア管が使用されており、補聴器本体部の半分は電池で埋められていました。したがって、かなり重量もあり、見栄えも悪いものでした。「こんなものを耳に付けて、御婦人に銀座を歩かせるのか」と言って悪口を言われました。又、颯田教授からは、「耳鼻咽喉科医は難聴を治すのが目的である。それをあきらめて、補聴器を使うとは耳鼻咽喉科医の恥である」とまで言われました。ところが、その颯田教授が昭和25年度文部省試験研究で難聴の子供達に補聴器を使って言葉を聞かせようと言う研究に班員として加っておられたのですから、颯田教授も補聴器に対する御理解は相当に深かったものと思います。

 補聴器の適応症を調査することを命ぜられた私は、多くの難聴者を相手に聴力検査を行い、補聴器を装用させて見ました。その結果、聴力損失が40dB以上で、聴力型が低音障害、水平型の者には補聴器が有効であることがわかりました。さらに、言葉による聴力検査が決め手であると言うこともわかり、後に制定された語音聴力検査法の開発を手がけるようになりました。

 現在ではもはや常識となっていますが、オージオグラムの可聴域値より語音明瞭度を推定することが出来ない症例をしばしば見ました。この人達は、感音難聴の一種で、音響物理学的手段では解明出来ず、病態生理学的な因子が関与しているものと考えました。ですからこのような症例には補聴器の装用が成功することはほとんどありませんでした。補聴器の適合判定には、どうしても語音聴力検査が必要でした。
 一方、東京教育大学附属国府台ろう学校を訪問し、難聴児が強大な太鼓の音で聴力検査をしている風景を見て、これは大変だな…と思いました。又、口の動きを見ながら言葉を理解しようとしている様子を見て、この子達を何とか補聴器で救えないものかとも考えました。しかし内心ではそれは不可能だろうとも思っていました。

 小林理学研究所で試作した補聴器は小林理研製作所で市販されるようになりました。丸の内の机だけの店、市ヶ谷での寒々とした販売店から淡路町の営業所へと移りました。その間に、補聴器は次第に小型化され、性能も向上しました。補聴器のフィッティングを試みようとして、営業所内に耳鼻咽喉科の診療所を作り、防音室までもうけました。ところが、産学共同の研究であるという非難を受け、東大耳鼻科教室は手を引きました。しかし、中村賢二先生と私とは、「補聴器には我々が関与しなければ進歩しない」と考え、営業所が岩本町に移った時に、中村先生は補聴器の改良に、私は補聴器のフィッティングに努力することを二人で約束しました。

 昭和41年、リオン(小林理研製作所の後身)の東京営業所が新宿に移りました。その前、佐藤孝二会長に呼ばれ、「幼児の聴能訓練をする所を作りたいのだが、どうか…」と問われ、即座に「それはよいことだ」と協力方を申し出ました。そして、その場所は新宿が最適と進言しました。この進言が今になってはよかったかどうかわかりませんが、新宿のビルの一角に小林理研の補聴研究室がもうけられました。リオネットセンターと協力して補聴器のフィッティングを始めました。同時に、母と子の教室ができ、金山千代子先生がみえられました。

 金山先生の幼児に対するエネルギッシュな聴能訓練をみて感心し、次第に上がるその効果をみて吃驚しました。高度難聴児でも補聴器を用いて会話が出来るようになるという現実をみて、その当時のろう教育の常識、音響学的知識は破られたと思いました。そして人間の能力の偉大さに感銘しました。私も出来る範囲で母と子の教室に協力することにしました。

 佐藤会長もこの現実に感銘されたためと思いますが、先生の発案で補聴研究会が出来、小林理学研究所、リオン梶A東大耳鼻科教室、国立特殊教育総合研究所の方々が集り、毎月、討論会を行いました。この研究会は佐藤先生が亡くなられて一時中断しましたが、補聴器研究会、補聴研究会と名称が変わりメンバーも変わって今に続いています。そして、「80dBの壁」「9才の壁」というろう教育の壁は乳幼児期よりの適切な聴能訓練で破られました。

 人間の聴力は周波数とdBで表わすことができるとされています。これはフレッチャーがオージオメータをつくった頃から始まったものでしょう。オージオグラムは聴力を表わし、このグラフから会話をする能力を推定することができると信じられたことが、難聴者にとって幸であったと同時に不幸にもなったと思います。オージオグラムのお蔭でオージオロジーは非常に進歩しました。しかし、オージオグラムで表現できない聴覚面は非科学的として等閑視されるようになりました。

 補聴器の適合を考える場合も、難聴者の聴力は周波数とdBで表わされているので、その低下分を補聴器で音を増巾してきかせれば、難聴者の聴力は正常聴力者とほぼ等しくなると考えられました。ですから、高音障害の難聴者には高音を増強した補聴器を装用すればよいとされました。しかし、現実はそう簡単なものではありません。高音障害の難聴には高音増強型、水平型、低音増強型の補聴器がほぼ同率で適合するのです。全く同じオージオグラムを示す難聴者でも、言葉を聞き分ける能力が非常に異なり、一方は補聴器が適合するが、他方は全く補聴器が使えないということもありました。このような症例を診ているうちに、オージオグラムは聴覚の一面を表わしてはいるが十分ではないことに気づきました。聴力、聴覚、聴能は関連はあるが、異なる面も多いのです。

 現在では補聴器のフィッティングには、可聴域値と不快域値とを測定して難聴者の聴野を求め、その中へ言葉を聴き分けるのに必要な成分を増巾して聞かせることに主眼が置かれています。その必要成分が会話をする環境に左右され、頭、肩、外耳道などの人体の各部の影響もうけるので、それを前もって補正することが考えられました。補聴器のフィッティングを判定する時の補聴器の特性は、測定するカプラが2cm3カプラからツビスロッキー・カプラに変えられたり、インサイチユ測定が行われるようになりました。そのため、ある難聴者に対する補聴器の特性も、箱型、耳がけ型、挿耳型で異なることになりました。即ち、現在は補聴器装用による鼓膜面上の音圧に関しては詳細な研究が行われ、イヤモールドの導音管の形状が論ぜられています。しかし、ここまでは音響物理学的な現象です。

 難聴の病態生理に関する研究は依然としてブラック・ボックスの部分が多いのです。しかし、ファウラーが補充現象を発表して以来、難聴者の聴野内の現象が研究されています。聴野のダイナミック・レンジは難聴が高度になるに従って狭くなります。感音難聴は聴力が低下しても、不快域値の上昇はあまりありません。感音難聴の等ラウドネス曲線は正常聴力者のデータから推定することは困難です。後迷路性難聴では時間的分解能も低下しています。これらの現象から推しても、補聴器の特性をどのようにするかの決定は困難です。まして、聴覚心理に関する要因までを考えると混乱してしまいます。

 故に、補聴器のフィッティングは、音響物理学的要因で先ず補聴器を選定し、諸要因を考慮して難聴者の主観的判断をよりどころに補聴器を調整し聴能訓練を行う、このシステムを反復して、最終的に補聴器を決定することになりました。このための装置の開発が今後必要です。更に、補聴器装用のための難聴増という悪例がみられるようになりましたので、新らしい要因を加味して補聴器のフィッティングを行わねばなりません。又、一踏ん張りしましょう。

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