1984/6 No.5
1. 技術と心の調和を求めて

2. 航空機騒音監視システムの最近の開発例について

3. 騒音下におけるS/N改善について 4. 騒音軽減に関するOECD会議
   
 技術と心の調和を求めて

当研究所理事・リオン椛纒\取締役社長 三 澤 泰 太 郎

 「明治は遠くなりにけり」という言葉を、よく耳にしたことがあるが、今では昭和生れも60才という老人の仲間入りも後一年。
 このような時代の移り変りの中で、あらゆる社会現象が急速に変化しつつある今日、特に戦争を知らない若い世代の人達に、(財)小林理学研究所設立の経緯ならびにその関係会社として誕生したリオン株式会社について、その間の事情を設立者の言葉を通じて知っておいてもらうことは意義のあることと思う。それには、1954年12月に発行された小林理学研究所報告の創立15周年記念特別号は一つの貴重な資料である。というのはそれには研究所創立者の小林釆男先生、設立に活躍された佐藤孝二先生をはじめ、当時の研究員の方々が直接執筆されているからである。
 「初心忘るべからず」という名言があるが、私は特に創立者の研究所設立の精神を読み取り、その一端を知ることによって、研究所とリオンとの関係は勿論、延いては科学の世界を通じて広く人類のため後進の指針ともなれば幸せである。
 小林先生はこの特別号の挨拶の中で、
「私は大正8年に東大の政治科を出て、職を農商務省工務局に奉じ、その後昭和2年、内閣に資源局が設置されると共に、之に転じて、官吏としての最後の6年を当時の日本の資源問題一般と取り組んで送ったのでありますが、当時の日本の将来を思うにつけ、科学と技術の発達を図る以外に日本国の進展の途はないと考え、亦技術の高度の発展のためには、基礎科学の之に先んずる発達を図ることの必要性を痛感して、一官吏としての微力を尽して科学の振興を主張した……」と述べておられる。
 私は幾度か若し小林先生がご健在ならば、一度お目にかかりたいと思いながら過していました処、昭和48年4月の初め、突然小林先生からの電話で私に会いたいし、ぜひリオンを見たいと言われ、その数日後にわざわざ会社をお訪ね下さった。その時先生は80才に近い老紳士で白髪に櫛を入れ、お年の割にはしゃんとした張りのある声で、研究所創立当時のことを話された。その中で特に今でも私の印象に残っているのは、
「実は自分は僧侶になろうと思った、というのは、私は人間の霊魂、英語でいうsoulとは何か、それに触れてみたかったからである。しかしその後人間の霊魂、生命を研究するには科学の力を借りなければならぬようになりそれには理論物理学から入って、霊魂の何物であるかを探求すべきであると思い、第一高等学校(旧制一高)の理科に入学した。
 しかし中途にして病気をしたり、いろいろ事情もあって、一高を去り京都の第三高等学校(旧制三高)の文科を経て、今の東京大学に進学したが、私の人間探求の意欲はおさえがたいものがあり、折あらばこれを研究する研究所を作りたい希望に燃えていた。研究所を創立したのもこの欲望の現われである」と順々と話された。
 更に私が興味深く伺ったことは、小林先生が三高時代京都の下宿先で、かの有名な社会運動家赤松克磨氏との出会いのお話であった。先生はこの時自分も社会運動に身を投じようとされたが、赤松氏から“君は社会運動には適さないからやめた方がよい”といわれ断念されたというお話。
 小林先生のこの方面への情熱は農商務省工務局工場課在勤中、英国の労働組合などを研究し、わが国の労働組合関係法令の草案作成に情熱をそそがれたが、遂に在勤中に実現できなかったとの回顧談もまじえて、歡談は盡きなかったが、小林先生が藤沢市のお宅から、わざわざ国分寺までご老体の身で訪ねて来られたのは、先生が研究所を創立された動機は「人間の霊魂なるものを理論物理学、特に生物物理といった学問によって解明しようとしたものであることを、皆さんに知ってもらいたい」ということであった。
 このようなお話を伺って私が思ったことは、今でいうライフ・サイエンス即ち分子生物学、生物物理学、生体工学、メディカル・エレクトロニクスといった諸科学を綜合して人間を探求しようというものではなかったかと。
 ところが小林先生がこの特別号の挨拶の中で「在官中ついに何の成果をも収めることが出来ずに、一身上の止むを得ない事情で官途を去って、亡父の遺業である朝鮮における鉱山経営の仕事に転ぜざるを得ないこととなりました」と言っておられるように、昭和8年先生は官を辞し、小林鉱業株式会社の社長に就任された。
 然し「当時はまだ無名の一鉱山会社の社長に過ぎなかった」とありますが、間もなく日支事変から太平洋戦争へと戦域が拡大されるにつれ、この鉱山の価値は急上昇した。この鉱山の実体を知る人は多くはないと思うが、その一端を伺うものに「小林会歌」というのがある。昨年七月小林先生の奥様から頂いたもので、四節から成っているが、小林鉱業株式会杜を知るよすがともなればと思い、そのうち二章節を次ぎにご紹介しよう。
1. 太白峰はいや高く 漢江水は弥碧し
  嶮難比なき峠路や 天翔り往く地の果の
  無尽蔵なる鉱脈は タングステンの大宝庫
  峰谷々に谺する 聞け開発の槌の音
  おお上東 世界に冠たる重石鉱
  小林上東鉱業所

2. 上東鉱山北に在り 南ビルマにモウチあり
  達城興津狼林山 純鉄蔚山敦山と
  西に東に北南 事業所あまた花と咲く
  統べる本社は京城なる 小林鉱業会社なり
  おお小林 その名天下に隠れなき
  小林鉱業株式会社

 小林先生が研究所創立の夢を実現するについては、前理事長故佐藤孝二先生を忘れることは出来ない。これについて小林先生は「恰もその頃に亡盟友佐藤格君(農商務省官吏で秀才の音高し)の令弟孝二君と相通する機縁を得将来幸にして私の事業が緒につき、相当の余裕を生じたならば、官吏として果し得なかった夢を何等かの形で実現したいとのお話をして、佐藤君から協力すべしとの誓言を得て、事業を営むことの楽しい目標を心に懐いて朝鮮に渡った」と述べておられる。
 上記の特別号で佐藤先生の書かれた「研究所の生い立ち」の中で、小林先生と具体的に研究所設立について話合われたのは昭和12年頃で、佐藤先生は当時の社会情勢から、一朝一夕に理想的な研究所が出来るものでないことを基本的な考え方とし、先輩格の寺沢寛一、西川正治両先生の指導協力をうけ、先づ小規模な研究所を設立準備に取りかかることとし、そのためには先づ人材の確保に全力をあげ坂井卓三氏、岡小天氏、三宅静雄氏、能本乙彦氏等当時少壮俊才学究者を迎え、丸ビル内の小林鉱業株式会社東京出張所の応接間を仕切って、研究所創立事務所兼岡研究所とし、図書文献の蒐集購入から仕事を初めたが、やがて事務所は図書で埋まり、いよいよ本格的な研究所の設立に迫まれ、先づ場所の選定について、将来のことも考え敷地は一万坪、環境の良い場所をということで、約半年後に現在の地国分寺に定め、戦時下文部省管下の財団法人としては最後に認可された研究所として発足した。時に昭和15年8月のことであり、佐藤先生は当時のことを「研究に必要な図書雑誌や研究施設は何不足なく整えられ、美しい武蔵野の森にかこまれた新しい建物に移ってきた喜びは筆舌に尽し難いものがあった」と書いておられる。
 これに要した費用250万円は言うまでもなく小林先生の支出、そして維持財源は小林鉱業の株式2万5千株の配当年額10万円(1割6分)でスタートした。そして当初の事業計画は
  
1. 物質構造の理論的研究
  
2. X線及び陰極線に依る結晶並びに金属組織の研究
  
3. 超音波に関する研究
  
4. 水中音響の研究
  
5. ロッシェル塩の圧電気に関する研究
  
6. 軍部の依託研究
等となっている。

 然し世界大戦のさ中、研究所における軍部の依託研究の成果がみとめられ、これを生産化するために会社が設立され、初代社長に小林先生が就任、社名を鰹ャ林理研製作所と命名した。これが今日のリオンである。問題は敗戦という重荷を背負って終戦を迎えたことである。研究所の研究員であり、東京工業大学教授の三宅静雄博士は、この記念号の中で「思い出すこと」と題し「当面の努力は一日も早く以前の研究を再開し、業績をあげ学会における地歩を固くすることである」と言われ、また「戦後のわが国物理学会の復興のきざしは(財)小林理学研究所から始まったと言っても誤りではない」とも言っておられる。
 リオンとしては設立後1年2ヶ月で華やかな軍需工場の座をおりて、荒廃した戦後の街に放り出された。然しこのリオンが今日先端技術を駆使して、エレクトロニクス業界において軍に日本国内のみならず、世界に向って貢献しているのも、その根源は研究所創立以来幾多の先輩学究者の基礎研究の成果を応用し各種製品を開発し、人類のため環境衛生福祉企業としての基盤を年と共に強固にしつつあるからである。
 
最後に、私も研究所理事の末席を汚すものとして、小林釆男先生が戦後「研究所の各位は我が邦復興の絶対条件である技術振興の基礎を確立するという目的意識をはっきりと持つこと」という金言と、同時に佐藤前理事長が「音響学とは人生の慰安と安全に奉仕する学問である。」と宣言されたことによって、(財)小林理学研究所とリオン株式会社とは益々一身同体の実をあげ、来るべき21世紀に向って、「技術と心の調和」による「人類は一つ」の世界実現を目ざして堅実な歩みを続けて行く所存である。

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